c h a o s II

(4)

 「サラ……、リィル……」
 キリアは二人の名前を声に出して呼んだ。二人が、『ここ』にいる嬉しさを噛みしめながら。
 「ありがとう……。二人とも元気で……ここで会えて凄く嬉しい……。私、もう少しで諦めちゃうところだった。諦めて意識を手放しちゃうところだった。私、諦めないで、足掻いてみて本当に良かった……!」
 「そっか……」
 リィルがすまなそうにつぶやいた。
 「キリア、ごめんな。そして、ありがとう」
 「え?」
 「バートのために、こんなところでこんな目に遭わせちゃって。俺がもう少し早く目が覚めていれば……」
 「ううん」
 キリアは慌てて首をふった。
 「そんな、水臭いこと言わないでよ。っていうか、私がこんな目に遭っているのは、自業自得っていうか、私が勝手にバートについてきちゃっただけだし……」
 そこまで言って、キリアはふと、不安に駆られた。
 「バート……本当のところは、どう思ってたんだろう。バートは本当は私には、ついてきて欲しくなかったのかもしれない。すっごい迷惑に思われてたのかもしれない……。バートを助けるどころか、逆に足手まといになってたのかもしれない……」
 「そんなこと、ないわ」
 きっぱりとした口調で、サラが言った。
 「え」
 「もしバートがひとりで”ここ”に来ていたとしたら……バートはきっと、死んでたわ」
 「…………」
 サラの発言に、キリアは言葉を失ってぽかんとサラの顔を見つめた。
 「確かに」
 リィルも大きくうなずいた。
 「バートをひとりで”ここ”に来させるなんて、考えただけでも恐ろしいよ……。あいつ、ひとりだったら絶対自棄《ヤケ》になって何しでかすかわかんないからなー。だから……本当にありがとう、キリア。キリアも一緒に来てくれて」
 キリアはくすっと笑った。この二人にはかなわないな、と思った。この二人は本当に良く、バートのことをわかっている。そして、キリアとバートの間にある、心の溝を埋めてくれる。そんな二人の存在が、キリアは心の底から有り難かった。
 「……で。そのバートのことなんだけど、」
 リィルが口を開いた。キリアは緩みかけていた口元を引き締めた。
 「そうね。バート……。探さなくちゃ。私たち三人が無事で”ここ”にいること、伝えなくちゃ。四人で元の世界に帰らなくちゃ……。無事だと良いけど。無事よね、バート……」
 「バートは、今どうなってるの?」
 サラが尋ねてきた。
 「バートは、”ケイオス”の核《コア》であるクラリスさんと戦ってるところだと思う。戦況は……あまり良くない感じだったけど、私、バートが負けるなんて思って無いから」
 「核《コア》、……か……」
 リィルがつぶやいた。
 「”ケイオス”の核《コア》って……バートの父親さん、なんだよな……」
 「そうね……」
 サラもつぶやいた。
 「核《コア》を……バートのお父さまを破壊しなくちゃならないなんて、あまりにも酷だわ……」
 「…………」
 キリアは言葉を失った。自分たちは、”ケイオス”の北進を止めるため、核《コア》を破壊するため、ここに来た。しかし、核《コア》を破壊するということは……今まで目をそむけ続けていた事実だが、そういう、ことなのだ。
 「確かにクラリスさんは『敵』だけど、何か、方法ないのかしら。クラリスさんとバートが戦わなくてすむ方法……」
 と、サラは言う。
 「方法かあ……。話し合い、とか?」
 と、リィル。
 「とにかく、”ケイオス”が止まれば良いんだよな。核《コア》を破壊しないで”ケイオス”を止める方法、あるかもしれない。考えてみないと」
 「そうね……」
 サラも言う。
 「まずは、バートと合流しないと……」
 とリィルが言いかけたとき、サラがはっ、と顔を上げた。
 「サラ?」
 キリアはサラを見る。
 「……誰かの、気配がするわ……」
 「?! まさか、バート? どこに……」
 「あっちよ!」
 キリアとリィルの手を引いて、サラは暗闇の中、迷うことなく一直線に飛んだ。三人の身体を包む黄金《きん》色の光が、あたりの闇を優しく照らし出す。三人は手を繋いだまま、暗闇の中を飛び続けた。
 やがて、遠くに、橙《オレンジ》色に揺らめく、炎のような光が見えた。
 「? 何、あれ……」
 キリアはサラの横顔を見た。
 サラは答えず、キリアとリィルの手を引いて暗闇の中を飛び続けた。橙《オレンジ》色の光目指して、真っ直ぐに。
 そして、三人は『そこ』に辿り着いた。
 「見つかってしまいましたか」
 彼は橙《オレンジ》色の光をまとって、暗闇の空間の中に立っていた。赤く長い髪、薄赤く輝く翼、ガルディアの軍服――。

 *

 自分を見つめるクラリスの目が、赤く輝き――バートはぞくりと、背筋に寒いものを感じた。
 次の瞬間、視界から青色が消えた。海の青色も、空の青色も一瞬にして消え去り、バートは完全な暗闇に包まれた。
 「?!」
 隣に立っていたはずの父親も消えていた。バートが慌てて頭を巡らせると、少し離れたところに父親が立っているのが見えた。その目は不気味に赤く輝いている。表情は良くわからない。右手には、いつの間に抜いたのか剣を握っていた。
 (……何故だ)
 クラリスの意識が、直接バートの頭の中に流れ込んできた。
 「……え、」
 (……何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故……!)
 クラリスの意識がバートの頭の中でがんがん響いた。バートが苦痛に感じるくらい、強く……
 「……く、」
 バートは思わず両手で頭を押さえた。
 (……何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故……!)
 バートがクラリスを見ると、クラリスは右手の剣を大きく振りかぶっているところだった。
 「父……親……?」
 クラリスは何もない空間に剣を振り下ろした。
 剣が虚空を切った空間から、凄まじい業火が生まれ、バートに襲いかかってきた。バートの身体は一瞬で業火に包まれた。
 「……っ!」

 *

 彼は橙《オレンジ》色の光をまとって、暗闇の空間の中に立っていた。赤く長い髪、薄赤く輝く翼、ガルディアの軍服――。
 「「アビエス!」」
 リィルとキリアは同時に叫んでいた。アビエスは愉快そうな薄笑いを浮かべながらこちらを見ていた。
 「ピアンの王女に、リィル君に、大賢者のお孫さん、ですか――」
 「……『ようこそ、ここへ』……なんてこと、言わないですよね」
 リィルは言った。アビエスはフフッと笑い声を漏らした。
 「どういう意味ですか」
 「貴方は一体、何者なんですか……っていう、意味です」
 リィルはアビエスの眼鏡の奥の瞳を見つめて言った。
 「何者……? 見ての通り、ガルディアの将ですよ――という答えでは、いけませんか」
 「でも、ただの『ガルディアの将』では、無いでしょう」
 リィルは言った。
 「……フ、」
 アビエスは唇の端を持ち上げた。
 「貴方は、『力』を持っていますね。多分、クラリスさんやガルディアの『王』すらも軽く越えることのできる力を。なのに、貴方はガルディアの一将の地位に甘んじている。何故なんですか」
 「……大した『力』では、ありませんよ」
 と、アビエスは言った。
 「私は、時空を越えて正しい物事を見極められる『眼』と、どんな危機的状況においても自らの身を守れる『力』を持っている……。それだけのことです」
 「……十分、『大した力』だと思います」
 リィルは言った。

(5)

 「――!」
 バートは声にならない声を上げていた。全身を焼き尽くす業火。今まで感じたことのない熱さ。苦痛。喉が焼けつく痛み。呼吸もできない――
 (……死ぬ!)
 バートは直感的に思った。炎の精霊剣を使う自分が炎に焼かれて死ぬなんて――。しかし、この状況で今の自分に出来ることは何もない。それに……
 (父親は、本気で俺を殺そうとしている)
 ということを、バートは悟ってしまった。今までも何度か父親と対峙したことはあったが、どんなに自分が劣勢でも、バートは自分が「死ぬ」と思ったことはなかった。過去の対峙では父親から「殺気」を感じたことがなかったのだ。しかし、今の父親は……。
 (父親……。さっきまで普通に、会話、できてたのに……)
 (少しだけど……普通の、親子みたいに……)
 (……「会話」……?)
 そういえば、とバートは思った。今まで、父親とまともに「会話」しようと思ったことなんてなかった。一方的に父親を拒絶してきた。
 (でも、それは……)
 父親がピアンを裏切ったから。それが許せなかったから。
 (でも……)
 自分が一方的に拒絶していた父親は……
 『大陸を、惑星《ほし》を、全てを手に入れて、それをバートに譲る――。それが、俺の、望み』
 (なんで……そんなこと……言えるんだよ……)
 やっぱり理解できない。父親は理解できない。でも……!
 (もし俺が……一方的に拒絶なんかしないで……父親の話をちゃんと聞いて……理解できなくても、理解しようと、努力してたら……)
 (こんなことには……ならなかっ、た……?)
 全身を焼き尽くす業火。今まで感じたことのない熱さ。苦痛……
 (この苦しみは、痛みは……その、罰、なの、か……)

 *

 「私も、改めて聞きたいです。……貴方は、何者なんですか?」
 キリアもアビエスを見つめて問いかけた。
 「『何者』……」
 アビエスは視線を落として、自らの身体に目を向けた。
 「実は、正直、私もわかっていないんです。『私』が、何者なのか」
 「……え」
 アビエスの予想外の答えに、キリアは言葉を失った。
 「『私』のこの身体――『器』は、かつてのガルディアの研究者の青年だった……と、聞きました。『彼』の記憶は、私の中には残っていませんが」
 「器《うつわ》……?」
 リィルがつぶやいた。
 「……名前は確か、『アルベール=トリム』。けっこう有名な研究者だったようですね。なので、その名前をそのまま名乗るのはやめておいたのですよ」
 「アルベール……って、まさか……」
 キリアは息を呑んだ。アビエスは意外そうにキリアを見た。
 「知っているのですか? 『ガルディアの』青年だった『彼』を」
 「……『アルベール=トリム』は、パファック大陸の有名な冒険家にして『迷宮』研究家の第一人者の名前です。中世代の……千年前の、人物ですけど」
 「千年前、ですか。時代は合っていますね。それに『アルベール』は『リープ』でパファックに渡っていましたから、貴女の知っている『アルベール』と、同一人物かもしれません」
 「じゃあ、貴方の『器』は、千年前の人物なんですか?」
 キリアは尋ねた。
 「そういうことになりますね」
 アビエスはうなずいた。
 「私はこの『器』で、千年間、生きてきました」
 さらりとアビエスは言った。
 「千年間……」
 キリアはつぶやいた。それは、想像もつかないくらいのとてつもなく長い時間――。そんな長い時間を、この男は一体、何のために生きてきたのか。『力』を持ちながら、目的もなくただ生きていたとは思えない……。
 「……私には『使命』がありますから」
 キリアの心を読んだように、アビエスは口を開いた。
 「代償と引き替えに得た『力』を以て、長い時間を生きて、果たさなくてはならない使命が」
 「代償……」
 リィルがつぶやいた。
 「もっとも、代償を払ったのは、私ではなく『アルベール』ですがね。私には『アルベール』だった頃の記憶はありませんが、彼が払った代償については、……想像は、つきます」
 「…………」
 「私が『アルベール』だった頃の記憶を持っていないこと――。それが、おそらく、彼が払った『代償』、なのでしょう。それ『だけ』ではないかもしれませんが」
 「…………」
 「当時の『アルベール』がどのような状況に追い込まれて、このような決断を下したのかについては、さすがに想像はつきませんが。……まあ、今の私にとっては、正直どうでも良い話ですね」
 「…………」
 キリアはだんだんアビエスの話についていけなくなってきた。
 「……リィルちゃん、」
 サラが心配そうな声でつぶやいた。キリアがリィルを見ると、彼の顔は青ざめていた。
 「リィル……?」
 サラの手を握っているリィルの手が、細かく震えている……。リィルには、アビエスの話に何か感じるところがあったのだろうか。
 「……アビエスさん、」
 リィルが顔を上げて、アビエスに問いかけた。彼の声は僅かに震えていた。
 「何ですか、リィル君」
 「貴方は、時空を越えて正しい物事を見極められる『眼』を持っていると言いましたね。それなら……俺の父――エニィルが今、どこにいるかも、貴方には見えているんですか?」
 「……ええ、もちろん」
 アビエスはにっこりと微笑んだ。
 「!」
 キリアたちは息を詰めてアビエスの次の言葉を待った。
 「彼――エニィルは今、間違いなくパファック大陸に『存在』しています。会いに行こうと思えば、すぐにでも会いに行けますよ」
 「パファック大陸? どこに……ピアンの近くなんですか?」
 「……待ってキリア、」
 リィルが小さな声で言ったので、キリアは言葉を止めた。
 「それは聞きました。父も、『本気で会おうと思うのなら、会えないことは、ない』って、言っていましたから」
 リィルは言った。
 「そうですか」
 アビエスは言った。
 「……ありがとう、ございました」
 リィルはアビエスに向けて頭を下げた。
 「もう、良いんですか」
 「はい」
 「彼がパファック大陸のどこにいるかは、聞かないんですか?」
 「今の俺には……それを聞く、勇気が無いから……良いんです」
 リィルは言って、力無く笑った。
 「リィル……?」
 「それにしても……正直、ここまでぺらぺら喋ってくれるとは思っていませんでした」
 いつもの調子に戻って、リィルはアビエスに言った。
 「千年生きているとか、時空を越える『眼』だとか、『使命』がどうのとか、『代償』とか……。良かったんですか?」
 「ここでこうして会えたのも、何かの縁でしょうから、サービスですよ」
 アビエスは言った。
 「それに……」
 アビエスは三人を順番に見ながら、口を開いた。
 「貴方たち三人にとって、私の話など、私の存在など、本当にちっぽけな、どうでも良いことでしょう。私と話した内容《こと》なんて、すぐに忘れますよ。それに、私が話した内容《こと》全てが真実だという保証はどこにもありません。”ケイオス”で変な夢を見た――とでも思っていただければ、」
 「確かに、その通りです」
 アビエスを見つめて、きっぱりとサラは言い切った。
 「貴方が何者かなんて、あたしは興味ありません。でも、貴方に聞きたいことはあります。もし貴方が時空を越えて正しい物事を見極められる『眼』を持っているのなら……教えて下さい。バートは今、どこにいるんですか? 無事なんですか?」
 アビエスはサラを見つめて、微笑んだ。
 「……ええ。まだ無事で、生きていますよ。バート君は」
 「そこへあたし達を連れていって下さい! お願い!」
 サラは叫んだ。
 「……私には、そんな力はありませんよ」
 アビエスは首を振った。
 「私はDiosでもCreadorでもありません――。『器』を越えたことは出来ませんし、『動かす力』に逆らうことは、Diosですら出来ません。私達に出来ることは限られているんですよ。それに……」
 アビエスはキリアを見つめ、リィルを見つめ、サラを見つめて、言った。
 「あなた達は、私達の力を借りずとも、自分たちで目の前の闇を切り裂いて、前に進める力を、持っているでしょう」
 「……はい」
 リィルの身体が薄青く発光した。キリアがそちらを見ると、リィルの右手には、薄青く輝く一振りの剣が握られていた。
 「行きなさい。バート君は、この先にいます」
 アビエスは暗闇の一点を指して言った。
 「ありがとう、ございます」
 リィルはサラの手を引いて、アビエスが指す闇を目指して飛んだ。キリアもサラの手に引かれて闇の中を飛ぶ。リィルは右手の剣を大きく振りかぶる――。

 *

 切り裂かれた闇がゆっくりと元に戻っていき、アビエスの目の前から、三人の姿が完全に消えた。後には闇だけが残った。
 「adios《さようなら》、」
 アビエスは悲しげな瞳を闇の空間に向けた。
 「もう二度と、会うこともないでしょう――。健闘を、祈っていますよ」

(6)

 (……何故だ、何故だ、何故だ、何故だ、何故だ何故だ何故だ何故だ何故……!)
 バートの全身は、相変わらず容赦のない業炎に包まれていた。クラリスの意識がバートの頭の中でがんがん響く。身体中が焼けつく熱さに悲鳴を上げている。
 (……ダメだ……俺、きっと、死ぬな……)
 (悪ぃ……みんな……)
 バートは思った。痛み。苦しみ。哀しみ。悔しさ。恐怖。絶望。様々な負の感情が、バートの頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。
 (…………。そういえば……)
 頭の片隅で、ふと、バートは思い出していた。
 (いつだったか、リィルが、言ってたっけ……)
 『死の誘惑って……まじでやばいよね……』
 『……?』
 『俺、一度だけ、本気で”死ぬな”って思ったことがあってさ。ガルディアの本拠地で、クラリスさんの攻撃受けた後、高熱出して寝込んでたとき。すっごい熱くて苦しくって苦しくって……、でもその先に、何か穏やかな、安らぎの世界が見えたんだよね。それが、多分”死”――。……俺、そっちに行かなくて本当に良かった』
 『ふーん。そういうもんなのか……?』
 苦しみの先にある、安らぎの世界、それが『死』なんだと、死の世界に片足突っ込んだ体験をリィルはそんなふうに語っていた。
 (くそ……怖くなんか……ねーぞ……っ! 来るなら早く、来やがれってんだ……)
 やがてバートにも、『安らぎ』が訪れるのだろう……。今はこんなに苦しくても、やがて……
 『勝ってね、お願いだから』
 (……?)
 女性の声が響いた。バートが良く知っている声。
 『あの人を止めてやって。息子のあんたの手で、引導を渡してやって』
 (!)
 「……バッカ、やろ……!」
 バートは呻いた。自分は今まで何を考えていた? 苦しみの終わり、安らぎの『死』を求めていなかったか?!
 (俺は、何のために、ここに来たんだ、よっ……!)
 (考えろ! 何か方法を! 父親を止める方法を!)
 (俺は死ぬのかもしれない。でも、ただで死ねるか? せめて相討ちに……!)
 (剣を失ってしまった今の俺に……できること……何か……)
 「!」
 そう言えば――と、バートは思い出した。バートは一度、剣を使わずに炎の精霊を使ったことがあった。ピラキア山の”炎《ホノオ》”の扉で、意識を失って『暴走』していたとき。あのときの記憶は、断片的にバートの中に残っている。あのときの自分は、確かに炎の精霊を使いこなしていた。
 (あのときのこと……思い出せ……!)
 (炎のエネルギーが、身体の中に、流れ込んできて……)
 あのときも、そうだった。こんなふうに身体中が熱くて……
 バートは心を落ち着けると、ゆっくりと息を吐き出し、ゆっくりと息を吸い込んだ。吸い込んだ空気は熱かった。もう一度ゆっくりと息を吐き出し、ゆっくりと熱い気を吸い込む。どくん、と自らの鼓動が聞こえた。熱い気が全身を巡る……。
 「!」
 バートの背中で、熱い熱が弾けた。弾けた熱は発散せずバートの背中のあたりに留まり、『何か』を形作る……
 (『翼』……?!)
 自分の背中に赤い翼が生えたのを、バートは自分の身体の外側から見ていた。
 (え?!)
 自分の背中と赤い翼が確かに見える。自分の身体は橙《オレンジ》色の光を放っていた。自分は右手を高く掲げ、炎の精霊を召喚する――
 (あれは……俺?!)
 ”バート”の右手に、赤く輝く剣が現れた。”バート”は剣を片手に、暗闇の空間を飛ぶ。クラリス目がけて一直線に――。
 バートは自分の意思とは関係なく動く自分の身体を、外側から呆然と見守るしかなかった。自分の身体が勝手に『暴走』しているのを。
 クラリスは”バート”を見て、剣を構えた。”バート”はクラリスに向けて剣を振り下ろす。
 (何故……!)
 クラリスの意識。
 赤い刃と赤い刃がぶつかり合う。赤い閃光のスパーク。二人の身体は赤い光に包まれる――
 そして、バートは見た。
 ”バート”が繰り出した剣が、クラリスの胸を貫いているのを。

 *

 バートは再び赤い荒野に立っていた。目の前には、クラリスがうつ伏せになって倒れている。”バート”が剣を突き立てた、実の父親。
 クラリスがゆっくりと顔を上げた。バートが初めて見る、クラリスの弱々しい表情。
 「バート」
 クラリスの声は小さかった。バートはクラリスのそばにかがみこんで、顔を近づけた。
 「そんな顔を、するな」
 「…………」
 自分は今どんな顔をしているのだろうとバートは思う。
 「バートにとっては、これで良かったんだろう」
 「…………」
 バートは肯定することも否定することもできずに、沈黙を続けていた。
 (母親……)
 バートの脳裏に、母親の顔が浮かんだ。悲しそうに笑う、バートの母親。
 (俺は……)
 クラリスを倒した。クラリスに勝った。なのに、ちっとも嬉しくない。代わりに母親の悲しそうな顔が浮かんでくる。
 (母親……俺は、本当に、これで、良かったのかよ……?)
 「……ユーリア、は、」
 クラリスがバートの母親の名前をつぶやいたので、バートははっとして父親の顔を見つめた。
 「ユーリアは……元気に、している……?」
 「ああ。すっげー元気」
 バートは答えた。
 「ここに来る前に、『勝ってね』ってお願いされた」
 「そうか」
 「でも、母親は多分……、今でもあんたのこと好きなんだと思う」
 「……そうか」
 クラリスはわずかに微笑んだように見えた。
 「……ユーリア、に」
 クラリスは絞り出すように声を発した。小さく弱々しい声で。
 「え?」
 「伝えて……欲しい」
 「……うん」
 バートは父親の、おそらく最期になるであろう言葉を待った。
 「……、……」
 クラリスが聞き取りづらい声で言葉を発した。一度では聞き取れなくて、もう一度聞こうとバートは自分の耳を父親の口元に近づけた。
 「…………」
 クラリスはわずかに微笑んで目を閉じた。
 「…………」
 バートはゆっくりと立ち上がった。あたたかく乾いた風が吹いてきた。バートの髪を、クラリスの髪を、クラリスのマントを揺らして通り過ぎていく。クラリスのマントが、服が、身体が、少しずつ少しずつ風化して赤い砂になって風に乗って大気に消えていく。
 長い時間をかけて、クラリスは細かな赤い粒子となって大気に消えていった。涙で視界がぼやけて、クラリスが消えていくのを最後まで見届けることができなかった。ぬぐってもぬぐっても止まらない涙。
 「ちくしょう……」
 バートは右手の甲で何度も涙をぬぐった。ぬぐってもぬぐっても止まらない涙。
 「ちくしょう……なんで今更……!」
 空にはまぶしい太陽。ぎらぎらと照りつける光熱。バートの涙と、バートの心を乾かすように。
 優しい風はもう吹いてこない。赤い大地に足をつけて立っているのは、バートひとりだけだった。

(7)

 「あれは……?!」
 サラがつぶやいた。サラとキリアとリィルの三人は、言葉もなくただ呆然とその光景を見つめていた。
 闇を切り裂いた向こう側の闇の中には、確かにバートがいた。
 ――背中には、赤い翼。右手には、赤い剣。彼の全身を包むのは、橙《オレンジ》色の炎……。
 「まさか、あのときと同じ……?」
 キリアはつぶやいた。
 「バート……」
 リィルがつぶやく。
 炎に包まれたバートが、三人に気が付いたのか、こちらを見た。その目は怪しく赤く輝いている……。キリアはぞっとした。
 バートは右手の赤い剣を掲げるような動きを見せた。次の瞬間、
 「……!」
 サラが素早く何かを叫んだ。え?と聞き返そうとしたときには、サラはキリアの右手を離して、ひとりで真っ直ぐにバートに向かって飛んでいた。サラの右手には、いつの間にか青く輝く剣が握られていた。
 「……サラ?」
 一呼吸遅れて、キリアは声を発した。さっきまで右手に感じていた温もりが消えて、急に不安に襲われる。
 そのキリアの右手を別の手が掴んだ。
 「リィル……」
 キリアはリィルを見た。リィルはキリアの手を握りしめたまま、息を詰めてバートとサラを見守っていた。

 *

 「バート!」
 サラは叫んで、バートのほうへ飛んだ。炎に包まれたバートもサラのほうへ飛んでくる。バートは赤い剣を大きく振りかぶり、サラに向けて振り下ろした。
 サラも両手で青い剣を握りしめ、バートの一撃を受け止めた。
 「っ!」
 両手首に重い衝撃が走り、思わず声が漏れた。バートはそのままぐいぐいと刃を押し込んでくる。ものすごい力だった。サラは両腕に力を込めて耐えた。剣を握りしめてバートと刃を合わせたまま、身動きがとれなくなった。少しでも力をゆるめれば、自分の身体は真っ二つに斬り裂かれてしまうだろう。
 「バート……」
 サラは顔を上げてバートを見た。赤い瞳を真っ直ぐに見つめる。その右目から、赤い液体が一粒、こぼれ落ちた。
 (――涙? 血……?)
 バートの赤い瞳は、深い悲しみを湛《たた》えていた。サラは胸が詰まるような思いでバートを見つめていた。
 「バート……。クラリスさんは……」
 その先は、言えなかった。

 *

 (やめろおおぉぉっ!)
 バートは絶叫していた。いつの間にか自分は再び暗闇の中にいた。目まぐるしい場面転換に振り回されるのにも、もう慣れてしまった。
 あろうことか”バート”は、サラに刃を向けていた。自分の国の王女。一緒に旅してきた仲間。大切な幼なじみに……。
 (頼む……もう、やめてくれ……! 俺の身体、なんでまだ、動いてるんだよ……! もうとっくに限界のはずだろ……? 父親さえ止められれば、俺はどうなったって……父親と相討ちってことで、死んだって良かったのに……!)
 自分の身体は外側も内部ももうボロボロのはずだった。そして自分の精神は、自分の身体を離れてしまった。もう後は死ぬしか道は無いだろう。今更『生』に未練はない。覚悟は決めている。
 最期にサラの元気な姿を見ることができたのは嬉しかった。リィルとキリアの姿も見えた。何故ここに?とも思ったが、それよりも嬉しさのほうが勝った。夢を見ているのかもしれないと思った。
 (くそ……! 夢ならせめて、良い夢にしてくれってんだ……! なんで最期の最期で、サラに刃を向けている”俺”を見なくちゃならないんだ……!)
 「……はああぁぁっ!」
 サラが気合の声を発した。サラは曲げていた両腕を思い切り伸ばした。サラの刃に”バート”の刃が押され、両者はバランスを崩す。力の均衡が崩れ――
 (?!)
 バートは息を呑んだ。サラは自ら青い剣を手放していた。サラの手を離れた青い剣は、周囲の闇に溶け込んで消滅してしまう。
 (サラ、何考えて……!)
 次の瞬間、サラは素早く動いて”バート”の懐に飛び込んだ。”バート”は赤い剣を振りかぶる。その右腕にサラはしがみついた。
 そのとき、どこからともなく銀色の小鳥が飛んできた。銀色に輝く鳥の嘴《くちばし》が”バート”の右手首を貫く。
 『!』
 ”バート”は小さく呻いて、赤い剣を手放した。赤い剣はゆっくりと暗闇の中を漂った後、周囲の闇に呑まれて消滅した。
 「バート……!」
 サラは”バート”の右腕をいったん離すと、”バート”の背中に両手を回し、包み込むようにしっかりと抱きしめた。
 (サラ……)
 サラの身体が黄金《きん》色の光を放つ。”バート”の身体も黄金《きん》色の光に包まれる。あたたかな心地良さが”バート”の身体を通じてバートにも流れ込んでくる……。バートは目を閉じた。
 大きく深呼吸をして、心地良さに身をゆだねながら、バートはゆっくりと目を開けた。金髪の華奢な少女が、自分の胸に顔をうずめ、自分をしっかりと抱きしめていた。バートもサラの背中に手を回し、サラを優しく抱きしめ返してやった。
 「……バート……?」
 サラがゆっくりと顔を上げた。サラの青い瞳と目が合う。
 「戻ったの……?」
 「……ああ」
 サラの瞳を見つめて、バートはうなずいた。
 「身体……大丈夫?」
 「ああ」
 ボロボロだった身体はもう、どこも痛くも苦しくもなかった。そして、自分の意思でちゃんと動くようになっていた。
 「……良かった……」
 サラは小さくつぶやくと、再び胸の中に顔をうずめてきた。小さな肩が小刻みに震えている……。
 「サラ……」
 「泣ーかした」
 「!」
 はっとして声がしたほうを見やると、すぐ近くでリィルが微笑を浮かべていた。バートはかっと頬を紅潮させた。
 「だ、誰が! こいつが勝手に……ってか、お前も他人《ひと》のこと言えるのか?」
 え?とつぶやいてリィルは、リィルの隣のキリアを見た。リィルの左手はキリアの右手を握りしめていて、キリアは左手で頬を伝う涙をぬぐっているところだった。
 「お、俺が泣かしたわけじゃ……!」
 珍しくうろたえるリィルを見て、バートは笑いがこみ上げてきた。リィルがいて、キリアがいて、サラがいて。こうしてまた四人一緒に、同じ時間に同じ場所にいて。
 ちょっと前までは当たり前のことだと思っていたのに――。
 バートは小さく息を吸い込んだ。三人に言わなくてはならないことがある。
 「俺は……さっき、”ケイオス”の核《コア》を、父親を、クラリスを、倒した」
 バートはっきりとした口調で、三人に告げた。
 「バート……」
 サラが泣き止んで、顔を上げた。リィルの表情が固まり、キリアは息を呑む。
 「そ……か」
 リィルがぽつりとつぶやいた。サラとキリアは何も言わない。しばらく沈黙の時間が流れる。
 「……それでお前ら、俺が凹《へこ》んでると思ってるだろ」
 「え? 違うの?」
 驚いたようにキリアが聞き返してきた。
 「いったんは凹んだけどな……、でも、」
 バートは父親の顔を思い浮かべた。長い間、心の底から憎んでいた父親。しかし、今は、自分でも不思議なくらい、穏やかな気持ちで思い浮かべることができる。
 「父親だって、俺がいつまでも凹んでること、望んでねーと思うし」
 「……そうね」
 サラがバートを見上げて言った。
 「それに……リィルとキリアとサラが、ここにいるから」
 「バート……」
 「だから、もう、俺は大丈夫だ」

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