父 の 望 み 、母 の 願 い

(1)

 パファック大陸に伝わる、四大精霊にまつわる伝説。

 精霊。土火風水の四種。人に使役されるもの。
 土火風水それぞれの精霊たちを統べるもの、四種の大精霊、四大精霊。
 昔も今と同じように、パファック大陸で暮らす人々の生活は精霊たちと共にあった。
 二千年前、「敵」がどこからともなく現れ、パファック大陸に攻め入った。赤い翼を持つ、異形の者たち。異空間からやってきた、異世界の者。
 異形の者たちは、遥か彼方の異空間から大量の兵力を送り込んできた。次々と攻め落とされ占領されていく大陸の都市。
 大陸の窮地を救ったのは、四大精霊だった。伝説によると、「四大精霊が力を合わせ、異形の者たちを追い払った」と。しかし、「どうやって」追い払ったのか、真相は不明だった。その後、大精霊たちは各地で眠りについた、とされていたが、真相は不明だった。
 今、二千年前と同じように、どこからともなく現れた「敵」によって、大陸の都市が二つ、陥落した。「敵」に対抗する力を手に入れるため、バートたちは四大精霊の力を手に入れる旅に出た。もちろん、二千年前の伝説のとおり、四大精霊を手に入れて、「敵」を大陸から追い払うために。
 しかし、その旅は、二千年前の伝説とは違った形で幕を閉じた。四大精霊を手に入れたのは「敵」のほうだった。バートたちは一緒に旅をしてきた仲間さえも敵に奪われた。
 四大精霊の力、新たなる強大な力を手に入れてしまった「敵」。大陸征服を目論む彼らとの戦いは、さらに熾烈を極めるものとなるだろう、とバートたちは覚悟した。しかし、それでも、彼らが攻撃を仕掛けてくる以上、戦わなくてはならない……

 *

 リンツの街、とあるホテルの応接室。
 キグリスの大賢者の塔から、リスティルが来ていた。キリアからの手紙を見てリンツに駆けつけたのだという。リスティルがリンツに到着したのは、既にバートとキリアがピアン首都、敵の本拠地に向けて旅立った後だった。
 ピアン王、リスティル、バート、キリア、ユーリア、ルト。六人がピアン王を囲んで応接室のテーブルについた。ピアンの軍服を着た二人の将軍、アルベルトとディオルが王のかたわらに立った。
 「王に会う前に、」
 と、バートとキリアはアルベルトから言われていた。
 「不用意にサラ王女のことで王に謝らないで下さい。王女は自らあなたたちの旅に同行することを望んだのです。王は、王女の意思を尊重したいのです。王女が敵に連れ去られたのは、王女の責任です。……それに正直、あなたたちが謝ったところで、何の慰めにもなりませんから」
 「わかりました」キリアはうなずいた。
 バートとキリアはピアン王に、リンツを発ってからツバル洞窟までの旅のことを語った。扉のこと、鍵のこと、ピラキア山、大賢者の塔、コリンズ。炎、風、水の大精霊の力を手に入れたこと。そして、ツバル洞窟で突然サラが駆け出したこと。ガルディアの襲撃。洞窟の中で待ち伏せていたクラリス。クラリスはサラに”陸土《リクト》”の力を手に入れてもらったと言った。大地の鍵はピアン王家の血だったのだと。そしてクラリスは、王女の命を盾に、”炎《ホノオ》”と”風雅《フウガ》”を手放すように命じ、四大精霊と、サラとリィルを連れ去った……
 それから、バートとキリアが体験した「黒い砂漠」のこと。ピアンの首都と王宮の消滅、一面の黒い砂漠。バートとキリアもそこに呑み込まれたが、なんとか脱出してきたこと。クラリスと名乗る、人の形をした炎のこと。
 「よく、無事で戻ってきてくれた」
 長い長い話が終わって、王は言った。
 「黒い砂漠については、小隊を向かわせて調査にあたらせよう」
 「くれぐれも気をつけて下さい」とキリアは言った。
 「決して黒い砂に触れてはなりません。呑み込まれてしまうかもしれませんから」
 「そのように伝えよう」
 「”ケイオス”……と、言ったのですね」
 リスティルが口を開いた。
 「何か知ってるの? リスティル」
 キリアが言うと、リスティルは一冊の古びた本をテーブルの上に置き、ページを繰った。
 「その本は?」
 「エニィルさんが置いていった本です」
 バートの問いに、リスティルは答えた。
 「作者不詳、書かれたのは千年近く前でしょうか。変わった言語で、解読に時間がかかりました。北方の中世の言語に似ていましたね。とある研究者による、二千年前の戦いについての論文のようでした」
 「エニィルが?」とルト。
 「ええ」リスティルはうなずいた。
 「でも、直接渡されたわけではありません。黙って置いていったみたいなんです。最初は忘れ物だと思っていました。しかし、今となって思えば、私たちに読ませるために、置いていったのですね。……このような事態に備えて」
 「まったく、アイツは」
 ルトが微妙な表情を浮かべてため息をついた。
 「どんなことが書いてあったの?」
 ユーリアがリスティルに尋ねる。
 「”ケイオス”について、です」
 リスティルは答えた。バートとキリアは息を呑む。

 *

 その古い本に書かれていたことは、もう少し具体的な、二千年前の四大精霊の伝説。
 大陸の者たちによって解放された四大精霊は、そのときにできた空間のひずみから、”ケイオス”を召喚した。
 ”ケイオス”は「敵」を呑み込み、彼らを異空間の彼方に追いやった。しかし、「敵」は消滅しても、”ケイオス”は残った。全てを呑み込んで成長する、恐るべき”混沌”が。ケイオスは止まらなかった。パファック大陸のほとんど全てを呑み込んだ。
 「解読できたのはここまでです」
 リスティルは本を閉じて言った。
 「最初は”ケイオス”って何なのか、全くイメージできませんでした。しかし、キリアさんたちの話を聞いて、確信しました。あなたたちが見てきた黒い砂漠、それがまさしく”ケイオス”なのだと」
 「じゃあ、結局、ガルディア軍は伝説の通り、”ケイオス”に呑み込まれて消滅したってことなの?」とキリア。
 「そして”ケイオス”が残った、って、まさしく今のこの状態、じゃない?」
 「そうですね」リスティルは静かにうなずいた。
 「四大精霊はガルディアに奪われましたが、結局、ガルディアは、四大精霊の扱いに『失敗した』のでしょう。あるいは、真実を知らなかったのか……」
 「……エニィルは、それを狙っていたのかもしれないな」
 ルトがぽつりと呟いた。
 「ええ」リスティルもうなずいた。
 「私も、そう思います」
 「それ、って?」バートは聞き返す。
 「つまり、エニィルさんは、最終的にはガルディアのほうに四大精霊を揃えさせようとしていたのかもしれません。そして、ガルディアに”ケイオス”を召喚させる。”ケイオス”は、ガルディアを呑み込む……」
 「ちょっと待って」キリアは口を挟んだ。
 「でもそれって、随分危険な賭けじゃない? 確かにガルディアは”ケイオス”に呑み込まれた。でも、そのためにサラとリィルが……。いくらエニィルさんだって二人を犠牲にしてまで……」
 そこまで言って、ふとキリアは思い出した。水の大精霊”流水《ルスイ》”の力を手に入れるために、リィルに攻撃していたエニィルの姿。あのエニィルは本物だったのだと、キリアは確信していた。
 (エニィルさんがそこまでして”流水《ルスイ》”を得ようとしていたのは……もしかして)
 サラ王女と一緒に、自分がガルディアに捕われるために? でも、結局、エニィルは息子に”流水《ルスイ》”を託して、姿を消した。私たちが、リィルが見つかるまでコリンズを動く気ないと言い張ったから? ……わからない。
 「それで、」バートは口を開いた。
 「あの”ケイオス”は、どうするんだ? その本によると、ケイオスは止まらなかったって……。パファック大陸のほとんど全てを呑み込んだって……」
 「最終的には、止まったんだとは思いますが……」
 リスティルは視線を落として本を見た。
 「すみません、そこから先は、まだ解読できていないんです。しばらく時間を下さい。近日中には、きっと解読しますから」

(2)

 次の日、十名ほどの小隊が”ケイオス”の調査に向かうためにリンツを発った。バートとキリアはリンツで身体を休めることにした。バートは右腕と左足の違和感が気になり、知り合いの医師エンリッジを訪ねた。
 「うーん……」
 バートの右腕を注意深く診察して、エンリッジは首をかしげた。
 「外傷も内傷も無いようだが。……暗闇の腕に掴まれた?」
 エンリッジの問いに、バートはうなずいた。
 「そんで、闇が内部に入り込んでくるような感触があって」
 「”闇”か……。嫌な感触なんだろうな、それ」
 エンリッジは眉をひそめた。
 エンリッジに治癒してもらい、『違和感』はだいぶ治まった。しかし、完全には消えてはくれなかった。バートの身体の中には、未だ”闇”が眠っている。
 その次の日、”ケイオス”の調査にあたっていた小隊の隊員のうち二人がリンツに帰還した。彼らは四人乗りの乗用陸鳥《ヴェクタ》に乗って四人で帰還した。――サラと、リィルを連れて。
 サラとリィルが帰ってきた――。その報せを、バートとキリアはリンツの仮設住宅で聞いた。時刻は昼をだいぶ回った頃で、ユーリアとルトとフィルとエルザも一緒にその報せを聞いた。六人は急いで二人が運び込まれたというエンリッジの医院に向かった。どうやら二人とも無傷の状態で帰ってきたわけではないようだった。
 「二人とも、命に別状はないんですよね?」
 医院までの道を急ぎながら、キリアはピアンの兵士に確認した。
 「ええ、そう聞いていますが……。二人ともまともに喋れない状態だそうで」
 「相当、悪いってこと? 重傷なの?」
 ユーリアが心配そうに尋ねる。
 「いや、怪我自体はたいしたことないらしいんです、二人とも」
 「え?」
 「……すみません、詳しいことは私もあまり……。とにかく、会えない状態ではないですから、会ってみて下さい」
 キリアは嫌な予感がした。リィルとサラが帰ってきてくれたこと自体はものすごく嬉しい。心の奥底で、最悪、もう一生会えないかもしれないと覚悟していたのだから。しかし、兵士の話を聞く限り、今の時点で素直に喜んではいけないような気がする。少なくとも実際に二人の様子をこの目で見るまでは。
 キリアはバートやルトの顔をちらりとうかがい見た。二人とも厳しい表情を崩していなかった。

 *

 リィルとサラが運び込まれたという病室の前。兵士のノックに応じて中からエンリッジが姿を現した。普段着の上に白衣を羽織って、首から聴診器を提げている。
 「サラとリィルの様子はどうなの?」
 キリアはエンリッジを見上げてずばりと本題を切り出した。
 「ああ、眠ってるよ、リィルは」
 エンリッジは穏やかに微笑んでみせた。
 「怪我もちょっとしてたけど、たいしたことなかったし、もう治したし」
 「……そう。それで、サラは?」
 「サラ王女か……」
 エンリッジはわずかに表情を曇らせた。
 「王女はほとんど無傷だったし、今も意識はある……っていうか起きてるんだけど、」
 エンリッジはいったん言葉を止めて、言いにくそうに続けた。
 「……ちょっと錯乱というか、混乱しちゃってるんだ。二人とも中にいるんだけど、あまり一度に大人数で入らないほうが良いと思う」
 「じゃあ私は、落ち着くまでここで待たせてもらうわ」
 ユーリアはすぐに言った。
 「あたしもそうする」とルトが続ける。
 「まずはバート君とキリアちゃん、二人で入ると良い。構わないだろ? エルザ、フィル」
 「そうね」エルザも言った。
 「どうやらリィルのほうは大したことなさそうだし。むしろ深刻なのは王女の精神状態……そういうこと、でしょ?」
 「ん……まあ。どっちかというと、な」
 エルザに見つめられ、エンリッジは微妙な表情でうなずいた。
 「そういうことなら、俺も遠慮しておくよ。どうせリィルは眠ってるんだろ」
 フィルはバートの背中を押した。
 「フィル兄……」
 「頼んだよ、バート君。キリアちゃんも」
 「わかりました」
 キリアはエンリッジが言った意味をあまり深く考えないようにしながらエンリッジに続いて病室の中に入った。バートも続く。
 明るい白い壁。薬品の匂い。窓からわずかに流れ込む外の新鮮な空気。棚に並べられた医療用具、硬い背表紙の本、薬品の瓶と木箱。部屋の右側に置かれた大きな机。いくつかの椅子。部屋の左側には三つのベッド。ベッドの傍らの椅子に座り込み、うつむいている、やつれた様子の金髪の少女――。間違いなく、サラだ。
 「サラ」
 キリアは少女に呼びかけた。キリアの声に応じて、金髪の少女がゆっくりと顔を上げた。虚ろな青い瞳がキリアをとらえる。
 「サラ」
 バートもサラの名前を呼んだ。バートはキリアの隣を追い越してサラに歩み寄った。
 サラはがたり、と椅子を鳴らして立ち上がった。真っ直ぐにバートのもとに駆け寄り、その胸の中に飛び込む。バートの胸に顔をうずめて、バートにしがみついて小さな肩を震わせる。
 「サラ……」
 バートはサラの背中に手を回して、サラをそっと抱きしめた。
 そのまま、時間がゆっくりと流れていく。
 「無事だったんだな」
 「……!」
 バートの呟きに、サラはびくりと小さな肩を震わせた。首を左右に振り、バートの肩に手を置いて顔を上げてバートを見つめる。
 「サラ……?」
 「……う、の……」
 サラは小さく言葉を発した。サラの両の瞳から、涙がこぼれ落ちる。
 「……な、さ……」
 サラはバートの胸に顔をうずめて、声を立てずに泣き始めた。
 「サラ……」
 バートはサラの肩に手を回して、サラの涙を受け止めてやることしかできない。
 「……ずっと、この調子なんだ」
 エンリッジがキリアに言った。
 「朝、ここに来たときから、ほとんど喋ってくれなくて……。王宮関係者に対してもな。……リィルは目覚めてくれないし」
 エンリッジはリィルが眠るベッドのもとへ歩いた。キリアも続く。
 リィルはベッドで昏々と眠り続けていた。寝顔は穏やかで苦しそうな様子はなく、ただ眠っているだけのように見えた。しかしエンリッジが言うには、どんなに刺激を与えても意識が戻らないらしい。呼吸も心拍も安定しているし、体温も少し低いだけで、いつ目覚めてもおかしくない状態だというのに……
 「これは俺のカンなんだけどさ」
 とエンリッジはキリアに言った。
 「王女、リィルが目覚めてくれないことに対して自分を責めてるみたいなんだ……。”ケイオス”のことはちらっと聞いたけどさ、バートとキリアも大変な経験したんだろ。この二人だって、きっと……」

 *

 サラは再びリィルが眠るベッドの傍らの椅子に腰かけて、うつむいたまま動かなくなってしまった。バートとキリアがどんなに呼びかけても反応しない。虚ろな青い瞳は、何も映していない。
 キリアとバートはエンリッジに勧められてテーブルのそばの椅子に腰を下ろした。ふと、テーブルの上に置かれている短剣に目が留まった。白い布――おそらくサラのハンカチが広げられていて、その上に置かれている短剣。鞘はなく、刀身が剥き出しになっている。その刃は薄青い光を放っていた。
 「フィル兄の剣? ……”ケイオス”で無くしたはずなのに」
 バートは思わずそう声に出していた。
 「嘘、でもこんなに小さくなかったでしょ」とキリア。
 「ああ、まあ、そうなんだけど」
 「この短剣は、」とエンリッジが口を開いた。
 「黒い砂漠で王女たちが発見されたときに、王女が握りしめていた短剣、だって聞いてる」
 「……え、」
 サラとリィルを発見した兵士たちの話によると、とエンリッジは語り始めた。
 「昨日の夕方、って言ってたっけな。兵士たちはみんなで西の空、真っ赤に沈みゆく太陽を眺めてたんだって。で、夕日がほとんど沈んだ頃、ひとりが黒い砂漠の真ん中に、黄金色に輝く『何か』を見たんだ。それは確かに黄金色のオーラを放っていて、ゆっくり、ゆっくりと、兵士たちのほうに近づいて来たんだって。兵士たちは警戒しながらそれを見守っていたんだが……それが、王女だったっていうんだ」
 「えっ……?!」
 バートとキリアは同時に声を上げていた。
 「王女は、黄金色の光に包まれながら、黒い砂漠を『歩いて』兵士たちのところまで来たんだと。左腕に、気を失ったリィルを抱えて。右手で、この短剣を握りしめて」
 「歩いて……?」キリアは驚く。
 「それに、黄金色の光って……」
 「王女は、」とエンリッジは続けた。
 「兵士たちのところまで歩いて来ると、突然、体中の力が抜けたようにその場に突っ伏したらしい。兵士たちは慌てて王女とリィルを抱き起こした。二人とも気を失ってはいたけれど、幸い大きな怪我は負っていなかった。それで兵士のうちの二人が、王女とリィルを乗用陸鳥《ヴェクタ》に乗せて、夜通し走らせてリンツに帰ってきたんだと」
 「ってことは、発見されたときからリィルは意識を失ったままなのね」
 キリアはエンリッジを見た。
 「サラは、リンツに帰ってきたときには目覚めてたの?」
 「ああ。でもずっとあの調子で、何を聞いても答えない。ピアン王に対してもな。ただ、ずっとリィルのことを気にしているみたいで、傍《そば》を離れたがらないから、二人まとめてここで預かってるってわけなんだ」
 「じゃあ、リィルが起きたら……」
 と言ってバートは立ち上がりかけた。それをエンリッジは待て、と止める。
 「俺だって何度も起こそうと試みた。叩き起こすくらいの勢いでな。でも、だめだった。起きてくれない。原因はわからないが、多分、バートが起こしたって起きてくれないと思う」
 ふう、とため息をついて、バートは椅子に腰を下ろした。
 「まあ、リィルのことは俺が見とくからさ」
 エンリッジはバートとキリアを見て言った。
 「王女のことは、キリアたちに任せて良いかな。俺じゃあ多分、彼女の心の傷は癒せないから」

(3)

 夜。
 結局、この日リィルは意識を取り戻さず、サラはリィルの眠る病室を出たがらなかった。ユーリアとルトとエルザとフィルはリィルの顔を見て自分たちの仮設住宅に帰っていった。バートとキリアとエンリッジは時々サラに話しかけながら言葉少なに過ごしていた。話しかけられたサラの反応は、全くといって良いほど、なかった。
 「それじゃあ、俺は隣の部屋で寝るけど、」
 エンリッジはキリアに声をかけた。
 「何かあったら呼べよ。些細なことでも構わない。遠慮なんてするなよ、キリア」
 「しないわよ」キリアはエンリッジに言った。
 「何かあったら遠慮なく叩き起こすから。……悪いわね」
 「こっちこそ、ありがとな、キリア」
 「バートはどうするの? いったん帰る?」
 キリアはバートに尋ねた。
 「うーん。気分的には帰りたくねーな……」
 「じゃあ、バートも俺の部屋に泊まるか? ベッドひとつ空いてるし」
 エンリッジの言葉にバートはうなずいた。
 「キリア、何かあったら俺も叩き起こしてくれ」
 「わかった」
 エンリッジとバートは部屋を出て行った。扉が閉まり、残されたのは、眠り続けるリィルと、動かないサラと、キリアだけとなった。
 「サラ」
 キリアは普通の声でサラに話しかけた。
 「そろそろ私たちも寝よ。疲れてるんでしょ?」
 「…………」
 サラはうつむいたまま答えない。キリアはため息をついた。
 「ほら、心配しなくたってリィルは大丈夫だから。眠ってるだけだから」
 「…………」
 「もう……。あんまりリィルの心配ばっかしてると、バートがやきもち焼くわよ」
 「…………」
 「私、思うんだけど……」
 キリアはリィルの寝顔を見つめてつぶやいた。
 「リィルって、サラのこと好きだったんじゃないかな……」
 いつの頃からだったか、心の奥底にずっと引っかかり続けていた仮説。でも勘の良いリィルのことだから、サラの気持ちには気付いていて。それで、ずっとサラへの想いを封じていたのではないか……
 「……『好き』……?」
 サラがゆっくりと顔を上げてキリアを見た。それからゆっくりと首を振る。
 「それは、違うわ……」
 サラは静かにきっぱりと言い切った。
 「リィルは、フェミニストなのよ……」
 「フェミ……?」
 「あたしだけじゃないわ。キリアに対してだってそうでしょう」
 「そう……かな」キリアは首をかしげた。
 「……うん、そうかもしれない。そういえば何度も歯がゆい思いさせられたっけ……」
 サラはわずかに微笑みを浮かべた。
 「で……。バートは逆なのよね。女性でも対等に扱ってくれる。……あたしはそっちのほうが、嬉しいわ」
 「……そっか」
 キリアも微笑んだ。ようやく、サラが喋ってくれたのだ。今の状況を一時忘れられるくらい嬉しかった。
 「もう、大丈夫よね。あらためてお帰りなさい……サラ」
 「ありがとう……キリア」
 それ以上は、まだ聞けない。キリアはぐっと堪えた。あれから……ツバル洞窟で別れてから、サラとリィルの身に何が起こったのか。何故リィルは目覚めないのか。今すぐにでも聞き出したいけれど、まだ、聞けない。
 「灯り、消そうか。そろそろ寝ましょう」
 キリアが言うと、そうね、とサラはうなずいた。

 *

 キリアがふと目を覚ますと、窓の外は薄明るかった。夜と朝の境目くらいの時刻。眠くはなかったので、キリアはゆっくりと身体を起こした。隣のベッドのサラと、その向こうのベッドのリィルを見やる。二人とも静かに眠り続けていた。
 とりあえず良かった、とキリアは思った。二人はちゃんとリンツに帰ってきてくれたのだ。目覚めないリィルと、サラの精神状態については、まだ少し不安は残っているけれど。
 とりあえずサラにはゆっくりと休んでいてもらおうと思い、キリアは立ち上がってリィルが眠るベッドのそばまで歩いた。
 「リィル、おはよ。朝よ」
 キリアはそっと声をかけた。リィルは静かに眠り続けている。もともとリィルは朝に弱く寝起きが悪い。放っておくといつまでたっても眠っている。
 「もう十分寝たでしょ。そろそろ起きてよ」
 キリアはリィルの肩に触れて揺さぶってみた。最初はそっと、だんだん力を込めて。あまりに反応がなくて、リィルがちゃんと生きているのか不安に駆られる。キリアは手のひらをリィルの口元にかざしてみる。
 背後で扉の開く音が聞こえて、キリアは驚いて振り返った。バートが何のためらいもなく部屋の中に入ってくるところだった。
 「おはようバート。早いわね」
 キリアは平静を装って口を開いた。
 「……っていうかノックくらいしてから入ってきてよ」
 「ああ、悪い」
 悪びれた様子もなくバートは言った。
 「二人の様子はどうだ?」
 「リィルは相変わらず」
 バートの問いに、キリアは答えた。
 「やっぱり揺さぶっても目覚まさないの。ちゃんと息はしてるんだけどね……」
 「サラは?」
 「サラは、たぶん、もう大丈夫」
 と言って、キリアは微笑んでみせた。
 「昨日寝る前にね、少しだけだけど、ちゃんと話、できたから」
 「そうか」
 バートはほっと息をついた。
 「で、話って? 『あのあと』何が起こったのか、とか聞けたのか?」
 「…………」
 キリアは言葉に詰まった。頬がわずかに熱を帯びてくる。昨夜はサラに喋らせるためとはいえとんでもない話題をふってしまった……
 「あ、ええとね、ただの当たり障りのない会話。『あのあと』何が起こったのかについては、時間をかけてゆっくり話してもらおうと思うの。思い出すの、つらいと思うし」
 「……ありがとな、キリア」
 「え」
 キリアはバートを見た。
 「いや、サラがお前と喋って少しは回復したんだろ」
 「あ、うん、多分」
 「俺のほうが付き合い長いのにな……」
 独り言のようにバートは言った。
 「できれば俺が、サラの支えになって、色々話も聞いてやりたかったんだけど……」
 「……今のセリフ、ちゃんと、サラが起きてるときにも言ってあげなさいよ。私だけが聞くなんて勿体ないっ」
 「何でお前が赤くなるんだよ」
 「うるさいっ」
 キリアはバートを小突いた。

 *

 しばらくして「悪ぃ、寝過ごした!」とか叫びながら部屋の中にエンリッジが駆け込んできた。部屋の外はまだ完全に明るさを取り戻してはおらず、窓から流れ込む早朝の空気はまだ少し夜の空気を含んでいる。キリアはエンリッジに苦笑した。
 「全っ然寝過ごしてないからアンタ。私とバートが異様に早起きなだけ。ほら、こっちの二人はこの通りまだ寝てるし」
 キリアはリィルとサラについてバートに語ったことをエンリッジにも説明した。エンリッジは「そうか」とうなずいた。
 「アンタってつくづく……」
 エンリッジを見上げてキリアは呟いた。
 「ん?」
 「変わったわよね。すっかり『医師』になっちゃって。ガキで我侭でいじめっ子だった昔のアンタからは想像もできない」
 「いじめっ子?」
 「私、昔しょっちゅういじめられて泣かされてたんだからね、アンタに」
 キリアはエンリッジに言い放った。
 「今でもよーく覚えてるし、多分一生忘れないから」
 「へえー」
 バートがエンリッジを見て意外そうに言った。エンリッジは困ったような顔つきになる。
 「そうだったっけ……。だとしたら悪いことしたなぁ、キリア」
 「今更そんなふうに謝られても……。反応に困るんだけど。うん、でも、もう良いの、昔のことは忘れるから。今のアンタは十分信頼できるしね」
 「信頼、かぁ。正面きってそう言われると照れるな」
 「別にアンタに照れさせるために言ったんじゃないわよ」
 「ははっ」
 しばらくしてサラが目を覚ました。まだ疲労の影は残っているが、昨日とは違ってその瞳にはちゃんと光が戻っている。キリアはサラの様子にほっとした。サラはベッドから抜け出すと、バートとエンリッジに頭を下げた。
 「バート。エンリッジさん。心配かけてごめんなさい」
 「サラ……」
 「いや。そうか。良かったよ」
 エンリッジは微笑んだ。それからエンリッジはサラに身体の調子について色々と質問を始めた。
 「もしかして、腹減ってるだろ?」
 エンリッジはサラに言う。
 「はい」
 「歩けるんだったらさ、バートとキリアと三人で外出て何か食ってきな。それから、ピアン王に顔見せに行ってやると良い」
 「はい」
 サラはうなずいた。
 キリアとバートとサラの三人はリィルのことをエンリッジに任せると、病室を後にした。

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