d e p t h

(1)

 バートとキリアとリィルとサラの四人は乗用陸鳥《ヴェクタ》に乗ってコリンズを出た。エニィルが四人の前から姿を消してから丸一日が過ぎた朝だった。国境を越えてキグリス王国に入り、南東を目指す。国境を越えてまっすぐに南を目指せばキグリス首都なのだが、首都に寄ってからでは遠回りになる。目指す目的地は首都の東にある、ツバル洞窟と呼ばれる地下洞窟だった。
 「やっぱり、最後の扉はこのへんにあったのね」
 キリアは地図を広げ、ツバル洞窟のあたりを指さして言った。
 「やっぱりって?」とバート。
 「ほら、ここがキグリス首都でしょ」
 キリアはパファック大陸の中央を指さした。
 「ここが炎の扉、ここが大賢者の塔、ここがコリンズ」
 「おおー」
 バートは声を上げた。土火風水、それぞれの”大精霊”が眠る扉は、キグリス首都からちょうど東南西北に同じ距離だけ進んだ地点にあった。土火風水の扉を線で結ぶと大陸に巨大な正方形が描《えが》かれ、その中心にキグリス首都がある。
 「正確に正方形だね。これはきっと偶然じゃないな」
 リィルが感心した。
 「んで、いよいよ最後の大精霊、ってわけか」
 バートはサラを見た。
 「エニィルさんが言っていたけれど……」
 バートに見つめられてサラは口を開いた。
 「”陸土《リクト》”を得るにはあたしが必要って、どういうことなのかしら。まだ鍵も持っていない状態で、扉に行って大丈夫なのかしら」
 「でもエニィルさんは鍵に関わるって言ってたわね」とキリア。
 「案外、サラがもう持ってたりして。最初に炎の扉を開けたときだって、まさかバートの剣が鍵だったなんて思ってなかったし」
 「とにかく、行ってみて開けてみりゃわかるんじゃねーか? サラが開けられりゃあ持ってたってことだろ」
 「そうね、大地の扉に行ってみるしかないわね。色々不安だけど……エニィルさんいなくなっちゃったし」
 「エニィルさん、一体、どうしちまったんだろうな」
 「よほどのことがない限り、大精霊の力を三つも手に入れてしまった私たち四人を置いて消えちゃうなんて……」
 キリアたちは大精霊についてはほとんど何もわかっていなかった。全てを知っているようなエニィルが同行していたので、大精霊のことは全て彼に任せてしまっていたのだ。まさか、四大精霊の力を得る旅の途中で、こんな風にエニィルが姿を消すなんて考えてもみなかったのだ。エニィルがいなくなって、これからどうすれば良いのか、キリアたちは途方に暮れた。
 エニィルが消えてしまって戻ってこない。これは四人に突き付けられた動かせない事実。その意味を考えてみよう、とリィルは言った。
 エニィルが消えてしまった日の朝、リィルが帰って来た。ちょうどリィルを探しに宿屋を出ようとしていた三人と鉢合わせした。
 「リィル!」
 「リィルちゃん! 無事だったのね!」
 「今までどこで何してたんだよ」
 キリアとサラとバートはリィルを囲んで口々に言った。
 「心配かけてごめん」リィルは謝った。
 「俺、眠ってたみたいで」
 「眠ってた?」バートは怪訝な顔をした。
 「うん。長い夢を見ていた」
 「夢……」
 キリアは呟いてリィルに言った。
 「リィル。最初から喋ってほしいんだけど。あなたが体験したこと全部」
 「そうだね……。覚えてる範囲で」
 リィルは湖でバートとサラが消えたことは覚えていた。キリアと別れてボートで湖に漕ぎ出したことも覚えていた。
 「そこから先の記憶が曖昧なんだ。ごめん」
 と、リィルは言う。
 「ええっ、覚えてないの? 私もバートもサラも『迷宮』で起こった出来事はしっかり覚えてるわよ」
 「うん、なんか、目が覚めたらさっきまで見てた夢に手が届きそうで届かない、みたいな感じで。あ、でも断片的には覚えてる」
 「どんなことを?」
 「その夢にはキリアが出てきたような気がする。バートも」
 「あたしは?」とサラ。
 「サラは……どうだったかな。そして、最後に父さんが出てきた」
 夢じゃなかったのかもしれない、とリィルは確認するように呟いた。上着のポケットの中から小さな鏡を取り出す。それを見て三人は息を飲んだ。
 「リィル、それって」
 「例の、大精霊の鏡だよな」
 リィルはうなずいた。
 「父さんが、俺にこれを渡して、後のことは頼むよ、って言って」
 「リィル……」
 キリアは口を開いた。
 「私が見た夢の中ではね、あなたとエニィルさんが大精霊”流水《ルスイ》”の力をめぐって戦ってたのよ」
 「俺と父さんが?!」リィルは声を上げた。
 「……ああ、でも、うん、わかるな……。で、どっちが勝った……って聞くまでもないか。父さんだろ?」
 「確かにあなたが一方的にボコボコにされてたわねー」
 無事な本人を目の前にして、キリアは苦笑した。
 「でも、あなた達の戦いは最後まで見届けられなかったの。私もエニィルさんの攻撃を受けて気を失っちゃったから。それで気がついたら、ベンチのところに座ってて」
 次にバートとサラが迷宮で体験してきたことを語った。サラは最後に、エニィルとレティと穴のことを話した。
 「エニィルさんは大精霊”流水《ルスイ》”の力を手に入れてきたって言って、あたしにその鏡を見せてくれたの」
 「で、サラとエニィルさんとレティさんが迷宮から帰ってきて、」
 と、キリアが続ける。
 「私聞いてみたんだけど、私が見た、あなたと戦ってたエニィルさんは幻だったっていうのよね。……だから私が見たあなたも幻だったのかもしれない」
 エニィルさんが嘘言ってて、両方とも本物だったのかもしれないけれど、とキリアは言う。
 「肝心のあなたが記憶無くしちゃってるんなら……どうしようもない、か」
 「…………」
 リィルはしばらく黙り込んで考えてから、父さんは今どこに?と尋ねた。
 「俺が朝起きたら部屋にはいなかったぜ」
 と、バートは答える。
 「エニィルさんいなかったけどあんま気にしなかった。俺たちは三人でお前を探しに行くつもりだったから」
 バートは昨夜のエニィルとのやりとりをリィルに話した。
 「そうか……」リィルは呟いた。
 「嫌な予感がする。父さんを探そう。とりあえずレティさんのところへ行こう」
 嘘だ、とリィルは思った。予感ではなくて確信だ。エニィルは多分、『ここ』にはいない。あのとき、エニィルはリィルに「さよなら」、と言ったのだ。永遠の別れみたいな言い方で。
 四人はレティスバーグ博士の研究所を訪ねた。そこにエニィルの姿はなかった。四人はレティに彼がいなくなったことを話し、彼の行方について心当たりがないか尋ねた。レティは唇を結んで黙っていた。
 突然、その両の瞳から透明な涙が流れ落ちた。
 「すまない……」
 レティは苦しそうに言った。
 「混乱しているんだ。あまりに突然で、私も、受け入れられなくて……」
 しばらくレティは声もなく涙を流し続けた。
 「知っているんですね、エニィルさんのこと」
 キリアは静かに尋ねた。レティはうなずいた。
 「何故泣いているんですか? ……悲しいことが、起きたのですか」
 サラが尋ねる。
 レティは黙っていた。何と答えれば良いのか、という表情だった。
 「今まで俺たちと一緒に旅してたんだ。リィルの父ちゃんなんだ。話してくれ、一体エニィルさんはどうしたんだ!」
 「私の口からは、言えません」
 「……何っ?」
 「待ってバート」
 バートが感情を爆発させそうになったのを察して、慌ててキリアはバートを止めた。
 「レティさんを責めないで。話したくないことは話さなくたって良いと思う。その権利は誰にでもある。それを無理やり聞き出しちゃったら、きっと辛くなる。話すほうも、聞くほうも、お互いに」
 「でもキリア、状況が状況なんだぜ」
 「それはレティさんだってわかってるはず」
 「リィルちゃんは?」
 サラがリィルに問いかけた。
 「リィルちゃんは、良いの? それで」
 「うん」
 リィルはすぐにうなずいた。
 「俺は、父さんのこと信じてるから。いつか、きっと、それがわかるときがくる。それは今じゃないんだ」
 伝言があります、とレティは言った。
 「本気で会おうと思うのなら、会えないことは、ない」
 「レティさん……」
 「今はそれ以上は、言えません。……健闘を、祈ります」
 四人は研究所を後にした。これからどうしよう、ということになった。
 「私たちに、できることと言ったら……」
 キリアは声に出して言ってみた。
 「大地の、扉?」とサラが言う。
 「うん、それしかないと思う」リィルはうなずいた。
 「それが、父さんが残してくれたメッセージ、というか、俺たちが進むべき道、なんだと思う。サラが鍵と関わりあるってヒントも残してくれたし」
 「てことは、大地の扉に行けば、エニィルさんに会えるかも、ってことか?」
 バートはリィルに問いかけた。
 「うーん。会えるかどうかはわからないけれど……、父さんが消えてしまった謎は少しは解けるかもしれない」
 四人はコリンズで一日だけ待ってみることにした。ひょっとしたらエニィルが気が変わって帰ってくるかもしれない。可能性は限りなく低いが。それに、四人には大地の扉に急ぐ理由もなかった。
 しかし、やはりエニィルは現れなかった。エニィルの手掛かりは全くつかめないまま、誰も何の夢も見ずに次の日の朝がやってきた。エニィルに近付くためには、こちらから大精霊に近付いてみるしかない、ということだろうか。
 それがきっとメッセージなんだとリィルは受け取った。

(2)

 荒野にオオカミの遠吠えが響き渡る。高く、長く、悲しげな声。
 見渡す限りの荒野だった。土色の大地が広がっている。緑も、水の気配もない。この世の果てのような光景。生命《いのち》あるものが立ち入るのを拒むような。
 遠くの前方、東の彼方から、土ウルフたちがこちらに近付いてくるのが見えた。くすんだ毛並み。一匹一匹がかなり大きい。キリアは数を数えてみる。少なくとも、五匹。
 「リィル、止めろ」
 バートは乗用陸鳥《ヴェクタ》から飛び降りた。迷っている暇はなかった。あいつらをヴェクタに近付けてはならない。ヴェクタは自らの身を守るだけの戦闘力を持っていない。ヴェクタが襲われたら、戦うことのできる誰か、つまり自分たちで守ってやるしかない。今ここで、移動手段であるヴェクタを失うわけにはいかないのだ。そして、もちろん、この場にいる誰をも失ってはいけない。
 「ちょっと離れてろ。なるべく食い止めるけど、数が多い。食い止めきれないかもしれねー。そしたら全速力で逃げろ」
 「だってさ」
 と言って、リィルはキリアを見た。
 「俺も戦うよ。キリアとサラは状況見て、ヴェクタのこと、たのむ」
 「わかった」キリアはとりあえずうなずいた。
 「状況見て、なんとかする。あんたらが危なくなったらちゃんと助けるから」
 「了解。じゃあいくぞ、リィル」
 「オッケー」
 バートとリィルは駆け出した。リィルは水の精霊を呼び、土ウルフにぶつける。バートは剣を抜き放ち、斬りかかる。土ウルフたちは二人を囲み、次々と襲いかかる。
 「あたしも降りて加勢したほうが良いかしら」
 サラが言う。キリアは周囲の状況を見回して息を飲んだ。後方からも、土ウルフが二匹、迫ってきていた。サラもそれに気付く。キリアは少し考えてから、心を決めた。
 「ちょっと賭けだけど、私の『風の刃』の射程まで近付いちゃいましょう」
 キリアは言って、手綱を握ってヴェクタを走らせた。
 「私がギリギリのところから『風の刃』を放つから、あとは」
 「ええ。まかせて」サラはうなずいた。
 二匹の土ウルフとの距離を測りながら、キリアはヴェクタの速度を落とした。意識を集中して、風の精霊を呼び、刃《やいば》として土ウルフたち目がけて放つ。刃は一匹の土ウルフに命中した。土ウルフは高い声を上げて地面に崩れ落ちる。その後ろからもう一匹の土ウルフが駆けてくる。腹を減らして、ヴェクタを、キリアやサラを食らうために。
 サラはもうヴェクタから降りていた。土ウルフが地を蹴って飛びかかってくる。サラはその動きを見据えて、自分も動く。
 「やあああっ!」
 サラは気合の声を上げ、土ウルフに拳を打ち込んだ。土ウルフは地面に叩きつけられ、呻き声を上げる。サラは大きく息を吸い込んで、吐き出す。
 ヴェクタの上でキリアもほっと息をついていた。そのとき、すぐ近くの地面が持ち上がった。キリアは驚く。土の中から巨大な蜘蛛《クモ》が姿を現した。大きさは人の大きさと同じくらい。あまりに突然のことだったのでキリアの思考が一瞬停止した。声を上げることもできなかった。
 しかし、蜘蛛はヴェクタとキリアのほうには襲いかかってこなかった。八本の足で、素早い動きでまっすぐにサラと土ウルフのほうに向かう。
 「サラっ!」
 キリアは悲鳴を上げた。
 サラは振り返って蜘蛛が迫ってきていることに気が付いた。しかし、蜘蛛はサラに襲い掛かろうとしているわけではなかった。蜘蛛はサラが倒した土ウルフに飛びかかり、牙を突きたてた。
 そこから土ウルフの体内に毒液を注入して弱らせてから食らうのだろう。キリアは本で読んだことがあった。キリアは無表情でそれを眺めた。
 生を得た者は、生きるために他の生を求め、同時に自らも他から求められる宿命を背負っているのだ。それが、自然の摂理。
 「お疲れさま。行きましょう、サラ」
 キリアはサラに声をかけた。うなずいてサラがヴェクタに乗りこんでくる。
 「バートとリィルちゃんは大丈夫かしら」
 と、サラが言う。
 「あいつらのことだから、そう簡単にくたばってはいないと思うけど」
 キリアは東に向けてヴェクタを走らせた。バートたちの戦いも終わっていた。五匹の土ウルフたちが血を流して大地に横たわっていた。どこからともなく現れた二匹の大蜘蛛が、倒れた土ウルフたちに牙を突き立てていた。
 バートとリィルは少し離れたところにぐったりと座り込んでいた。二人とも腕とか肩とか足とかに傷を負っていた。土ウルフの爪や牙でやられたのだろう。あれだけの数だったのだ。
 「わー。あんまり無事じゃない?もしかして」
 キリアは慌ててヴェクタから飛び降りた。リィルはちらりとキリアを見て、小さく息をついた。バートはキリアのほうを見ようともせず、不機嫌な顔をして黙り込んでいる。
 「どうしたの?」
 何だかいつもと様子が違う二人に、キリアは心配になって声をかけた。
 「余計なことしやがって」
 地面を見つめたまま、バートが低く呟く。それを聞いてあからさまにリィルがむっとした。
 「どっちがだよ」
 「もしかして喧嘩してるの?」
 珍しいなと思いながら、キリアはどちらにともなく聞いてみた。
 「別に」
 バートは短く答える。
 「あーダメだダメだ」
 リィルが首を振って明るく言った。
 「ごめん、さっきのは無しで。喧嘩じゃないよな、バート?」
 「ああ。別に喧嘩じゃねーし」
 バートも気を取り直したように普通に言った。
 「それにしても、腹減ったなあ……」
 「何をのん気な。まずはさっさと怪我治してもらえって」とリィル。
 「お前もな」
 バートが言い返す。
 「二人とも、お腹がすいてたからちょっとイライラしちゃっただけなのよね」
 にこにことサラが言った。バートとリィルは思わず顔を見合わせる。
 サラはコリンズで買いこんできた食糧の入った袋を手にして言った。
 「まずは怪我を治して。それからご飯にしましょうか」
 四人は乗用陸鳥《ヴェクタ》の背で遅めの昼食をとった。食べている間は、ヴェクタの速度は落として進む。いつもよりゆっくりのスピードで東に向かう。目的地に着くまで、もう少しの間だけ、四人はヴェクタに揺られて荒野を行く。

(3)

 荒野を進んでいると、四人の前に、突然、石畳の広場が現れた。一辺の長さが人の歩幅くらいの正方形の板石が整然と敷き詰められている。
 四人は荒野に降り立った。乗用陸鳥《ヴェクタ》は「広場」の手前に停める。サラは一枚の板石の上に立ってみた。正方形を一枚一枚踏みしめながら、広場の中央に向かって歩く。
 「ここが、ツバル洞窟?」
 サラは広場の中央に立って首を傾げた。正方形の板石が敷き詰められた、正方形の石畳の広場。広場の周囲《まわり》には相変わらずの荒野が広がっている。
 「確かにエニィルさんが言っていたとおりだけど……」
 「どこかに地下への入口があるんじゃないかな?」
 サラの後ろからリィルが言った。その場にしゃがみこんで、一枚の板石に触れる。
 「どっかの板石を外すと、地下洞窟へ下りる隠し階段が現れるとか」
 「わあっ、それ、素敵ね」
 サラが楽しそうに言う。
 「冗談じゃねーぞ」
 バートが不機嫌に言う。
 「まさかこれだけの数、一枚一枚ひっくり返してみるとかやんねーよな」
 「しらみつぶし大作戦は俺もやだな」とリィルも言う。
 「暗号とか解いてここだ、ってわかるとか。何かすると仕掛けが発動して地下への入口が開く、とかのほうが良いな。……キリア?」
 リィルはヴェクタのところに留まったままのキリアを振り返った。
 「どうしたんだ、そんなところに突っ立って」
 バートはキリアに呼びかける。
 「早くこっち来いよ。地下への下り方がわかんねーんだ」
 キリアは小さくうなずいて小走りで駆けてきた。
 「どうしたの? 何か気になることでも?」
 サラがキリアに尋ねる。
 「ううん、別にそういうわけじゃなくて。ちょっと出遅れちゃっただけ」
 駆けてきたキリアは小さく息を切らせながら言った。
 「で、どうしよう」
 リィルが誰にともなく言った。
 「入口が見当たらないからあきらめて帰る――ってのは無しの方向で」
 「まーな。せっかくここまで来たんだし」
 バートが言い、キリアもサラもうなずいた。
 「エニィルさんのこともあるし……」とサラ。
 「それに――感じるの」
 「感じる?」
 バートがサラを見た。
 「…………」
 サラは言葉に詰まっていた。今、自分が感じている漠然とした「何か」を、うまく言葉にして伝えることができない。
 「大精霊”陸土《リクト》”の気配とか、そういうのを?」
 リィルが尋ねる。
 「多分、違うと思うわ」
 と言って、サラは首を振った。
 「そんな、見たことも会ったこともないモノの気配なんて、わからないもの。そうじゃなくて、自分の内側で、何かが……」
 どくん、と鼓動がサラにしか聞こえない音を立てた。サラは言葉をとめて目を閉じる。どこかから発せられているメッセージを受け入れようと、心を解き放つ。
 何かがサラをどこかへ導こうとしている。サラは目を開け、導かれるままに、歩き出した。
 「サラ?」
 バートの焦ったような声が背中から聞こえてきたが、サラは構わず広場の中央から東に向けて歩を進めた。十歩ほど歩いたところで、突然、サラの足元の板石が数枚、一気に抜け落ちた。
 「「「サラ!」」」
 バートとリィルとキリアは同時に叫んでいた。サラは地面に吸い込まれるように地下に消え落ちた。
 三人は慌ててサラが落ちた「穴」に駆け寄った。
 「おいサラ、大丈夫か?」
 バートは穴をのぞきこんで下に向かって叫んだ。穴の中は何故か薄明るかった。
 「大丈夫よ」
 サラの声はすぐ近くから聞こえてきた。サラは立ち上がってバートを見上げた。
 「そんなに深くなかったの。飛び下りられるくらいの高さよ」
 バートは飛び下りてみた。穴の深さはバートの背の高さくらいだった。バートが手を伸ばせば穴の縁《ふち》に手がかけられる。バートなら自力で地上に上れるだろう。それから、キリアやサラを引っ張り上げれば良い。それを確認してから、リィルとキリアも飛び下りた。
 穴の中は壁も床も天井も岩石でできていた。全ての岩石は薄明るい光を放っていて、灯りが無くても周囲を見渡せた。四人が立っているところは小さな宿屋の一室くらいの広さがあり、奥に向かってまっすぐに通路が延びている。通路は人ひとりが何とか歩けるくらいの幅で、二人並んで歩くことは難しそうだった。通路は緩やかな下り坂になっていた。
 「不思議な空間ね……」
 キリアは呟いた。サラはまっすぐに延びた通路をじっと見つめている。
 「あたし……行かなくちゃ」
 と、小さく呟く。
 「え?」
 キリアがサラを振り返る。
 「何だか、……が、騒いで……。ごめんなさいっ!」
 サラは通路に向かって駆け出した。三人は虚をつかれる。
 「サラ?!」
 一瞬遅れて、慌ててリィルも駆け出した。
 「サラ、ちょっと待てっ、ひとりで行くなっ!」
 バートとキリアも続く。
 三人はサラを追って薄明るい通路を駆け下りた。何も考えている暇はなく、とにかくサラに追いつこうと全力で走るしかなかった。通路は狭く、足元も平らではないので走り辛い。通路がまっすぐだったのは最初だけで、あとは右に左にカーブしながら、地下深いところに下りていく。
 最後尾を走るキリアは何度か岩に足をとられてよろめいた。そのたびに前を走るバートとの差が開いていく。だんだん呼吸が苦しくなってきて、足も痛くなってきた。キリアは立ち止まって岩に手をついてしばらく呼吸を整えると、最後の力を振り絞って声を張り上げた。
 「ごめん、もう限界、先行ってて!」
 キリアはその場に座り込んで息を切らしていた。ここはどこなんだろうと思う。ずいぶん走って、かなり深いところまで下りてきたのではないだろうか。
 しばらくして、バートがひとりで駆け戻ってきた。
 「大丈夫か?」
 と言って、キリアの隣に腰を下ろす。
 「な、なんで戻ってきたのよ? サラは?」
 「リィルが追っかけてる。俺はキリアんとこ戻れって言われた」
 「私なんかよりサラのこと心配しなさいよ」
 「でもお前をひとりにするわけにはいかないって、リィルが」
 と、バートは言う。
 「俺もそう思ったし」
 キリアは大きく息をついた。
 「ごめん、足手まといで」
 「別に。先頭のリィルが追いつけなきゃ俺たちだって追いつけねーし。ま、急ぎつつゆっくり行こーぜ」
 「まーね。……ありがと、気ぃ使ってくれて」
 キリアとバートは少し休憩してから走り出した。先頭をバートが走り、後ろをキリアが走る。バートはキリアにとっては速すぎるペースで走っていたが、キリアはなるべく音を上げずに頑張ってついていくつもりでいた。
 突然、キリアの目の前が真っ暗になった。一瞬後、冷たい床の上に横たわっている自分に気が付く。あれ? どうして自分は倒れているんだろう……
 「おいっ」
 叫んでバートが駆け戻ってきた。キリアはゆっくりと上半身を起こす。
 「大丈夫かっ?」
 バートはキリアの顔を覗きこんできた。
 「ダメかも……」
 キリアは小さく言った。走っているときは夢中で気がつかなかったが、冷静に自分を見つめてみると、今の自分のコンディションは最悪だった。頭がぼうっとして、身体が熱っぽく、吐きそうなくらい気分が悪い。
 「……ねえ、ヘンなにおいしない……?」
 キリアはバートに尋ねた。
 「ヘンなにおい? 別に俺は何とも」
 「やばいくらい空気悪いわよ、ここ。しかも下りていくにつれて空気の悪さが増していくみたい。……あんまり考えたく、ないんだけど。深いところで有害なガスか何か吹き出ているんじゃないかな……」
 「げっ」
 それを聞いて、バートが顔をしかめた。
 「俺は今のところ大丈夫だけど、お前は具合悪くなってるしな。じゃあ、さらに最深部に下りてったリィルとサラは……」
 「早く連れ戻したほうが良いわよ、きっと。最悪、途中で倒れてたりして……」
 キリアは苦しそうに息をつく。
 「早くそのこと伝えに行かなきゃ……」
 「でも、お前、」
 「私はまともに動けそうにないから、ここで待ってる」
 とキリアは言った。
 「バートは早く行って」
 「………」
 バートはしばらく難しい顔をして考えこんでいたが、やがて、キリアに背を向けてかがみこんだ。
 「……え?」
 「おぶってってやる。まずはお前を地上に連れてって、それからサラとリィルを連れ戻す」
 「え? わ、私は良いわよ、ここで待ってるから」
 慌ててキリアは言った。
 「でも、お前をここに置いてくわけにはいかねーだろ」
 バートは真剣な声で言う。
 「俺は俺で平気だし、あいつらもまだ平気かもしれねーし、でも、現にお前は具合悪くなってるんだから」
 「……じゃあ、お言葉に甘える」
 キリアはバートに体重を預けることにした。ごめんね……、と心の片隅で詫びる。でも、それ以上のことを考える余裕はなかった。正直、一刻も早くこの地下洞窟から地上に戻りたかった。外の新鮮な空気を吸いたかった。
 バートはキリアを背負ったまま、上り坂をさっきと変わらないペースで駆け上っていった。地上が近づくにつれ、空気の悪さも薄らいでいき、だいぶ気分も回復してきた。
 二人は飛び下りた穴の真下まで戻ってきた。バートはキリアをその場に下ろすと、穴の縁《ふち》に手をかけて地上によじ登った。そこから身を乗り出してキリアに手を伸ばしてくる。キリアはバートの手を握った。バートはすごい力で一気にキリアを引っ張り上げた。
 石畳に座り込んで、キリアは何度か深呼吸をした。青い空に、白い雲。石色の石畳に、土色の荒野。見慣れた光景をこんなにありがたく感じるなんて思ってもみなかった。
 「少しは良くなったか?」とバート。
 「うん、だいぶ。本っ当にありがと」
 キリアはバートに微笑んだ。
 「そっか。じゃあ俺は、またひとっ走り行ってくるかな」
 「悪いわね」
 「いや、俺は全然元気だし」
 そう言ってバートは穴に飛び込んだ。
 「気をつけてね」
 キリアは上から声をかける。
 「人のことより自分のこと心配したほうがいーんじゃねーか? ええ、お嬢ちゃん?」
 「!」
 キリアははっとして振り返った。赤い髪の男が二人、立っていた。

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