「まさか君までここに来てしまうとはね」
エニィルは苦笑した。
「貴方のことが心配でしたから」
レティは答える。
「でも、キリアちゃんを連れて来てしまったのは正直いただけなかったな」
「……すみません」
レティは視線を落とす。
「いや、良いよ」
エニィルは穏やかに言った。
「君に全て話していなかった僕が悪いんだから」
「全部話して下さらなくても良いんです」
レティは顔を上げてエニィルを見た。
「それでも、私は……」
*
白い霧に満たされた空間。そこにサラはひとりでたたずんでいた。
足元には、大きな「穴」がぽっかりと口を開《ひら》いていた。その穴は深くて大きい。のぞき込むだけで暗闇の空間に吸い込まれてしまいそうになる。
「バート……」
サラは足元の穴を見つめて小さくつぶやいた。
「お父様……」
白い霧の中から聞こえてきた声。サラの父、カシス王と、バートの父、クラリスの会話。王は約束、と言っていた。王は「クラリス」のことを知っていたようだった。そして、霧の中から姿を現した二人。怒るバート。王の剣がバートを貫く。サラは思わず叫び声を上げる――
そして、気が付いたら、サラはたったひとりでここに取り残されていた。バートも、カシス王も、クラリスも、白い霧に融けるように消えてしまっていた。
サラは目の前で消えてしまった者たちの名を叫びながら、白い霧の空間を闇雲に歩き回った。叫び疲れ、歩き疲れた頃、この「穴」が見えた。
サラは穴の前に座り込んだ。触れる地面はかたくて冷たい。
少し冷静になってみよう、とサラは思った。よくよく考えてみたら、王とクラリスがこんなところで一緒にいて会話をしているはずがない。
あの二人は幻だったのかもしれない。
(でも、そしたらバートは?)
目の前で消えてしまったバートも幻だったとでもいうのだろうか。
(それとも、「幻」なのは、この、あたし……?)
違う、とサラは強く否定した。バートはサラの手を握って先に立って霧の中を歩いた。大きくて力強くてあたたかい手。あれが幻だったなんて、あり得ない。
だから、バートもあたしも幻じゃない。本物なんだわ、とサラは確信することができた。でも、だとしたら、
(バート……。一体どこに消えちゃったの……?)
「サラちゃん?!」
自分の名を呼ぶ声にサラは顔を上げた。穴を挟んで反対側に、男性と女性が立っていた。黒いスーツに茶色の髪の男性と、黒く長い髪の女性。
「エニィルさん!」
男性は、朝から行方がわからなかったリィルの父、エニィルだった。女性はサラの知らない女性だった。
「サラちゃん、どうしてここに?」
「エニィルさんこそ、どうして『ここ』に」
サラが言うと、エニィルは隣に立つ女性と顔を見合わせた。
「彼女は」
「サラ王女。正真正銘の、ピアン王国の王女様だよ」
「ああ、やはり」
「あれ、驚かないね。そうか、レティはキリアちゃんから聞いてたんだっけ」
「あの、貴女は、」サラはレティに問いかけた。
「あたしとキリアのこと知っているんですか」
「ええ」レティはうなずく。
「サラちゃん、彼女が、ジュリア=レティスバーグ博士。僕の知り合いで、コリンズで『迷宮』の研究をしている」
エニィルが言うと、レティは軽く頭を下げた。
「迷宮、ですか?」
「はい。『ここ』が、迷宮と呼ばれる空間なんです」
レティはこれまでのいきさつを簡単に語った。キリアという少女が自分のもとに訪ねてきたこと。キリアは湖で友人三人が消えてしまったと言い、レティとキリアもボートで湖に漕ぎ出したこと。
「じゃあ、キリアもリィルちゃんも『ここ』に?」
「おそらくね」エニィルはサラにうなずいた。
「でも、レティはキリアちゃんとははぐれちゃったんだよな」
「はい。私が『ここ』に来たとき、そばに彼女の姿はなくて。おそらく、別々の空間に飛ばされてしまったのでしょう」
「そういうこともあるんですね」
サラは少し驚いた。
「じゃあ、あたしとバートがここで同じ時間、同じ場所に一緒にいられたのってラッキーだった、ってことなのかしら」
「サラちゃんはバート君と一緒だったんだ」
「はい。でも……」
サラは声のトーンを落とした。
「突然クラリスさんとお父様が現れて、バートはお父様の剣で斬られて、それから三人とも消えちゃったんです」
「…………」
エニィルとレティは息を詰めたような表情で互いの顔を見合った。
「クラリスが、」
エニィルは溜め息を吐き出すように呟いた。
「お父様とクラリスさんは幻だったのかもしれない。でもバートはさっきまで一緒にいたんです。幻なんかじゃありません。バートは、バートはどこへ消えちゃったんですか?!」
この二人が明確な答えを答えてくれる可能性は低いだろう、とサラはわかっていた。それでも、サラはそう問わずにはいられなかった。
「まあ、そうだろうね」
エニィルがゆっくりと言った。
「何がですか?」
「状況から考えて、君が見たクラリスとピアン王は幻だったんだと思う。そしてきっとバート君は本物だったんだと思うよ」
「じゃあ、バートは」
「消えてしまった……ということは……」
レティが口を開いた。
「迷宮の別の場所に転送されたか、……あるいは、外に転送されたのかもしれない……」
「外に……?」
サラは聞き返した。
「迷宮についてはわからないことだらけなんです」
と、レティは言った。
「過去の様々な事例から推察するしかなくて……。迷宮から『外』に帰還した例として、いつの間にか外に転送されていた、というのもあるんです」
「そうなんですか……」
迷宮についてもっと何もわかっていないサラはそれで納得するしかなかった。
「それで、あたしたちは外に出られるんですか?」
サラは聞いてみた。そして目の前の穴を見つめる。
「この穴は……」
「おそらく、『出口』です。外への」
と、レティが答えた。
「出口……? じゃあ、ここに入れば……」
「そのとおり」エニィルがうなずいた。
「この穴に入れば外に出られる。ここは少し寒いからね。サラちゃんも早く外の世界に帰りたいだろう」
「でも、キリアとリィルちゃんを置いては……」
「キリアちゃんはともかく、」とエニィル。
「リィルについては、正確にはここに来てるっていう確証はないんだけどね。ただ単にキリアちゃんが目を離した隙に行方不明になっちゃっただけかもしれないし。……そっちのほうがやっかいだけど」
「…………」
サラは少し考えてから、「エニィルさんは、」と話題を変えてみた。時間潰し、あるいは時間稼ぎのつもりだったのかもしれない。それに、ちゃんと聞いておきたいことでもあった。
「エニィルさんは、昨日の夜から行方不明で、一体どこで何してたんですか? どうして『ここ』に来たんですか?」
「ああ、それは……」
エニィルは少し言葉を切ってから続けた。
「まさか君たちまでここに来るとは思っていなかったから。できることなら一人で全てをすませて、何事もなかったように戻りたかったんだけど」
言いながらエニィルは懐から小さな鏡を取り出してサラに見せた。
「でも、そんなことしたらリィルに怒られるかな。だからこれで良かったのかもしれない」
「その鏡は、まさか」
「そう」エニィルはうなずいた。
「この鏡には大精霊”流水《ルスイ》”の力が宿っている」
*
キリアははっと顔を上げた。明るかった。目の前には真っ青な湖。波の音。潮の香り。
「あれっ?!」
キリアは思わず声を上げていた。自分は木製のベンチに腰掛けていた。
(何……? 夢、だったの?)
キリアは夢の前の記憶をたどった。確か、バートとサラがボートで湖に漕ぎ出して、自分とリィルはこのベンチに座って、
「うわっ」
隣に座っていた少年が声を上げた。キリアはそちらを見やってその少年と目が合った。
「キリア?!」
「バートっ」
二人は互いの名を呼び合ったまま、次の言葉がなかなか出てこないでいた。
「……ええと。とりあえず無事で良かったけど、ていうかサラは?」
「これも夢か? くっそ、次から次へとわけわかんねーことが……。どこからどこまでが夢なんだよ?」
バートはいつになく取り乱していた。話が全く噛み合わない。ここは私が冷静にならなきゃ、とキリアは思った。
「落ち着いて。私も今まで夢見てたのか、これが現実なのか良く分かってないんだけど、とりあえず、状況整理しましょう」
キリアとバートはそれぞれ自分が体験してきたことを語り合った。キリアはレティスバーグ博士とボートに乗って湖に漕ぎ出したこと、白い霧の中、リィルとエニィルに出会ったことを語った。バートはサラと二人で白い霧の中を歩き、クラリスとピアン王に出会ったことを語った。
「で、気が付いたら、こういう状況だった、と」
「ああ」
それはお互い、本当に不思議な体験だった。そんな別々の体験をしてきた二人が同時にこの場に存在しているなんて、奇跡に近くないだろうか。
「レティさんが言っていたの」
と、キリアはバートに語った。
「迷宮の中では、現実と夢、真実と幻、事実と虚構が渾然一体となって存在している。大切なことは、何を見せられても、自分を見失わないこと――って」
そこまで言ってキリアはふうと息をついて空を見上げた。
「けっこう似ているのよね、私が体験したこととバートが体験したことって。バートが見たクラリスさんとピアン王、私が見たエニィルさんとリィルって、幻だったのかなあ……」
「まあ、普通に考えて、ピアン王と父親がこんなところにいるわけねーからな。でも、リィルとエニィルさんについては、どうなんだろうな」
「幻だったら良いなあって思うけど」
「本人に聞いてみりゃいんじゃねーか?」
「そりゃそうね。……ちゃんと帰ってくるのかな、こっちに」
「俺たちは何だか知らないうちに帰ってこれたみたいだけどな。でも……、サラが……」
バートは悔しそうに呟いた。キリアははっとした。
「サラ……。悪いことしたな……」
「バート……」
キリアの胸が大きく音を立てた。一気に現実に引き戻された。サラとリィルとエニィルとレティが行方不明のままという現実。
「ねえバート、もう一度『迷宮』に戻らない?」
キリアはバートに言った。
「ああ。俺もそれ、考えてた」
バートはもう立ち上がっていた。
「やっぱり納得いかないわよね、こんなの。……あ、しまったボートないんだったっけ」
「ボートの一艘や二艘、湖一周すりゃ見つかるだろ」
「それには賛成しかねるけれど」キリアは苦笑した。
そんなバートとキリアの前に、突然、三人の人物が姿を現した。
「?!」
手品よりも唐突に、意識のちょっとした隙間をついて、気がついたら、三人が目の前に立っていた。キリアとバートは会話をやめて呆然とその三人を見つめるしかなかった。
「ほら、会えただろう」
黒いスーツ姿の男性がサラに微笑んだ。
「バート。キリア……」
サラが信じられない、といった表情で二人の名前を呟いた。
(7)
日が暮れて、相変わらずリィルは行方不明のままだった。四人はレティスバーグ博士と別れ、窓の外に湖の見える食堂で夕食をとっていた。
「明日の朝になっても帰ってこなかったら、日の出とともにボートに乗って」
「ああ」
「そうね」
キリアの言葉に、バートとサラは大きくうなずいた。
「もう止めないよ。気がすむまでやってみると良い」
エニィルはかたい表情のまま言った。
「でも、どうしても、三人で、なのか? 何度も言ったが、リィルは『迷宮』にいるとは限らない」
「だったら、どこに消えたっていうんですか?」
キリアは自分の感情をセーブしながらエニィルに問いかけた。
「それは、わからない。僕は可能性の話をしているんだ」
「とにかく、三人で行かなきゃだめなんです。後で、色々後悔したくないんです」
サラはエニィルを見据えてきっぱりと言った。
「……サラちゃんが、そう言うのなら仕方ない」
大精霊”流水《ルスイ》”の力を手に入れたエニィルは、何故か相当切羽詰っているように見えた。思い返せば今までもそうだったのかもしれないが、今のエニィルははっきりと旅を進めることを急いでいた。それでもエニィルはサラの意思を覆してまで無理やり連れて行く気はないようだった。
エニィルさんが全てを語ってくれないのが悪い、とキリアはエニィルを見つめて思う。エニィルは明らかに何かを隠している。……多分、リィルの行方については知っているのだ。
エニィルと再会して、キリアは迷宮の中でエニィルとリィルに出会ったことをエニィルに告げた。エニィルは驚いていた。
「ついに僕の幻まで出現していたか」
エニィルの言葉を信じて、あのエニィルが幻だったとして。エニィルと一緒にいたリィルはどっちだったのだろう。リィルが幻だったとしたら、本物のリィルの行方は本当にわからない。リィルが本物だったとしたら、リィルは迷宮の中でエニィルの幻と戦って、それからどうなったのかはわからないが、未だ迷宮の中にいる可能性が高い。
今晩だけ待ってみる。明日の朝になってもリィルが帰ってこなかったら、日の出とともにボートに乗って、という結論がバートとキリアとサラの中で確定しかけたときエニィルが口を開いた。
「悪いけど、そんな時間はないんだ。大精霊”流水《ルスイ》”の力は手に入れた。僕たちは一刻も早く、最後の大精霊”陸土《リクト》”のもとに行かなくてはならない」
「ちょっと待って下さい。まさかリィルちゃんを置いて?」
サラが驚きの声を上げた。
「レティに伝言を頼んでおく。リィルも馬鹿じゃないと思うから、戻ってきたら追っかけてくるだろう」
「そんなんで良いんですか? 息子でしょう、心配じゃないんですか?」
「だから、だよ」
エニィルは淡々と言った。
「もし帰ってこないのがバート君やキリアちゃんやサラちゃんだったら、それこそ置いていけないよ」
「私はリィルが見つかるまでここを動く気ありません」
キリアは言った。
「俺も」
バートもすぐに言う。サラが何か言いかけたのをさえぎってエニィルは言った。
「じゃあ、キリアちゃんとバート君は残っていても良い。その間に、僕とサラちゃんで”陸土《リクト》”のもとに行く。そういうことで、良いかな」
「え、あたし?」
サラは不思議そうにエニィルを見た。
「”陸土《リクト》”の力を得るためには、君が必要なんだ、サラちゃん」
「あたしの属性が、ですか」
「いや、もっと根本的な、『鍵』に関わることだから」
「嫌です」
きっぱりとサラは言った。
「あたしもリィルちゃんが見つかるまでここを動く気ありません」
だよな、とつぶやいてバートが頷いた。
そうか、とキリアは思った。サラの気持ちも自分の気持ちと同じなのだ。大精霊のことより大切な、譲れないことなのだ。
キリアはエニィルにぶつけてみたい疑問をいくつも持っていた。しかし、声に出して聞くことはできなかった。エニィルはキリアが疑問に思っていることを知っていて話さないに違いないのだ。それを無理やり聞き出して、エニィルとの関係を壊すことがこわかった。
食事を終えた四人は宿に戻ってそれぞれの部屋で眠った。
*
日の出前。
研究所の扉を叩く音がした。控えめな音だったが、古い本を読んでいたレティは顔を上げ、立ち上がって扉のもとまで歩き、扉を開けた。
外は暗い。中の灯りに照らし出されてエニィルが立っていた。
レティは彼を中に招き入れようとしたが、エニィルはここで良い、と断った。そして静かに言った。
「最後の、お別れに来たんだ」
「!」
レティは顔をこわばらせた。エニィルはそれに気付かないふりをして淡々と続けた。
「やっぱり君にはきちんと言っておかなきゃって思って。きちんとした『お別れ』は、君にしか言わない。……言えないんだ、僕は弱いから。今までありがとう、そして、……ごめんね」
「…………」
レティは絶句するしかなかった。いつかこういう日がくると覚悟はしていた。しかし、あまりに突然だった。
「だって、でも、貴方は昨日……。それに、まだ時間は……」
「うん、でもね――」
エニィルは微笑んだ。
「……色々考えたんだけど。やっぱり、今、このタイミングで、ってのがベストだと思ったんだ」
「そんな……」
「ありがとうレティ。君には迷惑ばかりかけてしまった。家族には言えないからって君を……」
レティは首をふった。両の目に涙がこみあげてきた。
「私は、迷惑だなんて思ってませんでした。嬉しかったです」
「……レティ」
「頼られるって、自分を必要としてもらえるって、誰かの役に立つって、嬉しいことなのです」
「そうか」
「貴方が決意したのなら、私は止めません」
レティは言った。本当は止めたかった。しかし、辛い別れはいつかはやってくるのだ。それが先延ばしになるだけだ。
「私に、何かできることはありますか」
レティはエニィルに尋ねた。
「多分、みんながここに来る。僕からの伝言として、伝えて欲しいことがある」
レティに最後の言葉を残して、エニィルは研究所の扉を閉めた。大きく息を吸い込んで何気なく空を見上げる。薄明るい暗い空に、星々が光を放っている。冷たい空気、波の音。今日はいつものように晴れるだろう。
「やっぱり最後に会いたかったな。それだけが心残りだよ……、ルト」
エニィルはリィルの母親の名を呟いた。
*
(……ル、リィ……ル……)
誰かがリィルの名前を読んでいた。何も見えない、真っ白な空間で。
(――誰……?)
リィルは頭を巡らせた。周りは何も見えない。
(……な、ら、リィ……ル……)
(え……? なに……?)
(……さ よ な ら……)
(……父、さん……?)
太陽の姿は未だ見えないが明るくなってきた頃。
リィルは湖畔のベンチに腰かけてうつらうつらとしていたが、そろそろ起きなくてはと思って立ち上がった。寝ているんだか起きているんだかわからないような一晩だった。何か時間を無駄に過ごしたような気がする。
(悲しい夢でも見たのかな。何で俺、泣いているんだろう)
リィルは目をこすった。指が涙で濡れた。頬は乾きかけている。
リィルは自分が泊まっていた宿屋に向かって歩き始めた。一歩歩くたびに、一段階ずつ意識がクリアになっていく。歩くたびに、次から次へと記憶が奥底から浮かび上がってくる。――あまり、思い出したくなかったことも。
(父さん……)
リィルは上着のポケットの中の小さな鏡を確認して、空を見上げた。