「もうすぐね」
サラがキリアに声をかけた。
「久しぶりの里帰り……楽しみ?」
「うーん、微妙なところね」キリアは苦笑した。
キリア達は乗用陸鳥《ヴェクタ》に揺られてキグリスの大草原を進んでいた。目指すはキグリス首都の西に位置する、大賢者の塔。
ヴェクタはかなり大型の陸鳥で、大きいものならその背に四人は楽々乗れる。バートはヴェクタの翼のところにもたれかかって自分の剣を抱えて目を閉じて寝息を立てていた。リィルは頬杖をついてぼんやりと草原の彼方を眺めている。
キリア達四人を乗せたヴェクタの後を、少し離れて小型のヴェクタがついて来ていた。そのヴェクタには、リィルの父エニィルが乗っていた。
ピラキア山を後にしたキリア達五人は、麓の町ギールを通過し、まっすぐに塔を目指していた。
(……里帰り、かあ)
キリアは心の奥底でそっとため息をついた。
*
キリアが「大賢者の塔」に連れてこられたのは九歳のときだった。以来、十年間、ほとんど塔から出して貰えず塔の中で暮らしていた。
九歳までのキリアは、キグリス首都の南東に位置するワールドアカデミーで教育を受けていた。ワールドアカデミーには国境を越えて学問を志す多くの生徒達が集められていた。リネッタとキリアは同級生だった。ついでに、リンツで再会した医師エンリッジとも同級生だった。
ワールドアカデミー時代のエンリッジに関する思い出は何ひとつ良いものが無かった。キリアにとっての彼はクラス一の乱暴者、赤毛のいじめっこガキ大将だった。キリアはクラスの中では勉強は良くできたし先生の言うこともきちんと守る優等生だったから、エンリッジ率いるクラスのはみ出し者グループに目をつけられよくいじめられたものだった。
久しぶりに見たエンリッジは随分と印象が変わっていた。勉強嫌いでサボリ魔で「オヤジの職業なんか継ぐか!」が口癖だったエンリッジが、炎の精霊の力を人を傷つけることにしか使っていなかったエンリッジが、今ではその力で医師として人を癒しているというのだから、一体彼に何が起きたのだろうと勘繰ってしまう。
しかし、エンリッジが、キリアがワールドアカデミーをやめた一因になっていたことは事実だった。日々のストレスに悩み勉強が進まないキリアを見かねて、せっかく才能があるんだからと、キリアの父が祖父キルディアスに預けたのだった。
大賢者の塔でキリアは一室を与えられ、リスティルという青年から色々教えを受けた。リスティルはリネッタの兄で、長い髪を持つ穏やかな青年だった。キリアは、リスティルの教えのもと、様々な知識――主に古代語や考古学――を吸収していった。
何不自由のない塔での生活。確かにワールドアカデミーの同級生達とのような煩わしい人間関係に悩まされることはなくなった。しかし、同時に失ったものも多かったと思い知った。ワールドアカデミーをやめたことについては、後悔はしなかったけれど。
塔での生活で感じていた何か物足りない気持ちは、いつしか外の世界への憧れとなっていった。そして、祖父とリスティルの間で揺れ動く微妙な気持ち。そういうものを抱えてキリアは何年も生きてきた。
そして、塔を出て本格的に遠出をする機会が与えられた。キリアは一人、「塔」を出て、国境の向こうの旅に出た。そして、ピアン首都でバートとリィルとサラに出会い、バートとサラを追ってリィルと二人でリンツを目指し、リンツからは四人旅となった。ピラキア山、炎の扉、ギール、道の駅、バートの父の来訪、キリアの伯父による襲撃。そして、ピアン首都陥落の、報せ。
その報せを聞いて、キリア達は急いでリンツに引き返したのだが、無理が祟ってサラは高熱を出して寝込んでしまい、バートとリィルはキリアを置いて二人だけで敵の本拠地に乗り込んで行ってしまった。そのときは、もしかして、四人での旅はもう終わってしまったのではないかと思った。バートとリィルのことは良い旅の仲間だと思っていたけれど、彼らの方は、自分のことをどう思っていたのだろう。二人に置いていかれて、キリアは改めてそのことを思い知った。二人にとって、ピアン王女であるサラはともかく、自分は、つい最近知り合ったばかりの、しばらく一緒に旅をして、旅が終わったらあっさり別れてしまえるような存在だったのではないか、と。それは、すごく寂しいことだと思った。でも、もしそうだったとしたら、受け入れなくてはならない事実なのだろうと覚悟していた。
でも、バートとリィルはリンツに――キリア達のもとに帰ってきてくれた。ガルディアの本拠地に軟禁されていたバートの母ユーリアやリィルの父エニィル、それにリィルの姉と兄と一緒に。そのこと自体は嬉しいことだったが、状況が状況なだけに、素直に喜びを分かち合うことはできなかった。特に、父親と決別してきたというバートのことを考えると。
――それにしても色々なことがあったな、とキリアは思い出す。塔の中にいたのでは絶対に体験できなかったこと。四人での道中は色々あったけれど、楽しかった。キリアにとっては初めての体験で、この旅がずっと続けば良いと、心のどこかで思っていた。もうあの塔には帰りたくない、と。
でも、やっぱり、結局こうして帰ってきてしまった。キルディアスの命どおり、エニィルとサラを連れて。リンツでバートとリィルに置いていかれたときに旅の終わりを覚悟したが、今度こそ本当に旅が終わってしまったのかもしれない。長いようで短い旅だった。
*
塔の最上階の一室でキルディアスはベッドに横たわっていた。かたわらの椅子にリスティルが座っていた。キリアをみとめてキルディアスが上半身を起こした。
「おじいちゃん」
キリアは青ざめた。一瞬、今までの自分の旅が全否定されたように思えた。
「具合、悪かったの?」
「大したことない」
背筋を伸ばしてキルディアスはわずかに笑った。
「リスティルが大げさなだけだ」
「しかし、もう若くないんですから、お身体を大切にしなければ」
リスティルはキリアと目を合わせて微笑んだ。
「お帰りなさい、キリアさん。長旅お疲れ様でした」
「ただいま、リスティル」キリアも自然に微笑んだ。
「大賢者キルディアス様、」
キリアは口調を改めた。
「ご命令どおり、ピアンのサラ王女をお連れしました。そして、」
「お久しぶりです、キルディアス様」
エニィルがキルディアスの前に進み出た。キルディアスは目を細めた。
「無事であったか、エニィル」
「一度ガルディアに捕まりましたが、バート君とリィルに助けられました。そして、バート君とリィルを助けて旅をしていたのがキリアちゃんとサラ王女で。本当に良い仲間ですよね」
そんなふうにエニィルに言われて、キリアはなんだか気恥ずかしかった。
「ほう、そちらの少年が」
キルディアスがリィルを見た。
「次男のリィルです」
「大きくなったな」
「おかげさまで……喜んでいただけるのでしたら、長女と長男も連れてくれば良かったかな」
と言って、エニィルは笑った。
(2)
西から吹く風は暖かくもなく冷たくもなく、空気の流れとしてキリアの髪を揺らして通り過ぎていく。心地よい風を全身で受けて服がはためく。ここは、キグリスの大草原で空に一番近い場所、大賢者の塔の屋上。キリアはここに上がったのは初めてだった。視界はほとんど空。見晴らしは最高で、草原の遥か彼方まで見渡せる。
西の海から吹く風は、この塔を通り過ぎ、大草原の草を揺らし、キグリス首都に吹き込む。だからここは「西風の塔」と呼ばれている。
皆でここに上がる前に、キリアとリスティルとエニィルの三人は、いったん塔の地下に下りた。バートとリィルとサラ、それにキルディアスは、塔の最上階の部屋で待機していた。
リスティルがキルディアスに託された鍵を使って地下室の扉を開けた。長い間使われていなかった扉はきしみながら開いた。中はじめっとしており、真っ暗でかび臭い。ランプを掲げたリスティルを先頭にして入る。
中は図書室のようだった。高さが天井まである本棚が壁を埋め尽くすように並べられている。それぞれの本棚には、分厚い背表紙の重そうな本が並べられている。題名の文字はほとんど古代語のようだった。
部屋の中央には机があり、大事典くらいの大きさの木箱が二つ並べて置いてあった。
「どうぞ」
と言って、リスティルはエニィルを振り返った。
「ありがとうございます」エニィルは微笑んで頭を下げた。
「キルディアス様と貴方には、何とお礼を言ったら良いか……」
「エニィルさん……リスティル」キリアはリスティルを見た。
「これって一体どういうことなの?」
「キリアさん……」
リスティルが声のトーンを落とした。
「申し訳ございません。キルディアス様と私は、長い間、貴女に隠しごとをしていました」
「そうみたいね。こんな見たことも聞いたこともないような部屋に私を連れてきて……でも、ちゃんと話してくれるんでしょう?」
「ええ。でも、ここで長話もなんですし、私がどこまで話して良いものか……詳しい話は、きっとキルディアス様が」
「うん、それが良いね」
エニィルは進み出て、机の上の木箱の一つを手に取った。
「キリアさん」とリスティルが言った。
「もう一つの木箱は、貴女が持って下さい」
「私が?」
キリアは言われるままにもう片方の木箱を手に取った。見た目よりも重い。
「これは、何なの? エニィルさんと私の中身は同じなの?」
「気になる?」と、エニィル。
「もちろんです」
「今ここで開けてみる? ちょっと暗いけど」
「はい」
キリアは迷いなく答えた。
「僕はね、ずっと昔にキルディアス様にお会いして、そのとき、これをここに預けたんだ」
言いながらエニィルは、木箱を机の上に置いて蓋を持ち上げた。ランプの明かりに照らし出されたのは、掌《てのひら》サイズの古びた手鏡だった。
「え、じゃあっ」
それを見て、キリアは驚いて声を上げた。
「まさか、これが、本物の……」
「ははは」エニィルは照れたような笑みを浮かべた。
「僕達四人が持っていた『鏡』は、全部偽物だったってわけ。本物はずっとここにあったんだ」
「…………」
キリアは暫く声が出なかった。
「えーと。まさかエニィルさんは、そんな昔から、この、今の事態を予見して……?」
「そういうわけでもないけどね。当時は杞憂だと良いなって思ってたし」
と言って、エニィルはリスティルを見た。
「申し訳ないと思っています。貴方達と、キリアちゃんを巻き込むことになってしまいましたね」
「そんな、貴方が謝ることではありません」
リスティルはきっぱりと言った。
「確かに私もキルディアス様も、キリアさんを巻き込みたくなくてずっと黙っていました。ですが、今がその時というのでしょう。遠慮は要りません、エニィルさん」
キリアの心臓が大きく音を立て始めた。手にした木箱の重さ。もしかして、この木箱の中身は。
「リスティル」キリアは口を開いた。
「貴方もおじいちゃんも、知ってるの? ……大精霊”風雅《フウガ》”の居場所」
はい、とリスティルはうなずいた。
「大精霊”風雅《フウガ》”の扉は……この塔の屋上にあります」
そして、三人は再び階段を上った。キリアは自分の持つ木箱は開けなかった。「そのとき」になって開ければ良いと思った。最上階の部屋で待つキルディアス達と合流し、七人で屋上へ出た。
屋上の中央には、一枚の扉がぽつんと立っていた。ピラキア山で見た、岩肌にはめ込まれていた『扉』に似ていた。これが、四大精霊のうちの一体、大精霊”風雅《フウガ》”の扉だという。”風雅《フウガ》”についての伝説はほとんど残っておらず、詳細はほとんど知られていなかった。居場所は今日初めて知った。まさか、自分が長い間暮らしていた塔に、扉も鍵もあったなんて。
「おじいちゃんもリスティルも、扉は開けてみたんでしょう?」
と、キリアは尋ねてみる。リスティルに支えられて風の中に立つキルディアスは、「そうだ」とうなずいた。
「じゃあ、なんで今まで教えてくれなかったのよ!」
キリアはそう叫ばずにはいられなかった。
「お前に”風雅《フウガ》”の情報は必要ないと思ったからだ」
「…………」
そう言われてしまうと、キリアは何も言い返せなかった。
「こわかったからですよ」
リスティルが小さく囁いた。
「私達の想像を超えた、『超古代』の技術《テクノロジー》に手を触れるのが。それに、私達は、『超古代語』をほとんど解読できませんから」
「この扉だって、開けるつもりはなかった。ずっと封印しておくつもりだった」
と、キルディアスは言った。
キリアはエニィルをうかがった。彼は扉を見つめて黙っている。
キリアはふう、と大きく息をついて、その場に膝をついた。木箱を地面に置き、蓋を持ち上げる。バートとリィルとサラが近寄ってきて、木箱を取り囲んだ。
中に入っていたのは、銀色のリングだった。細かい凝った彫刻が施されている。
「……腕輪?」
サラが呟いた。大きさは、ちょうどキリアの手首にはまるくらいだった。キリアはキルディアスを見上げた。
「その腕輪を右手にはめて、扉を開けるんだ」
と、キルディアスは言った。
「私が?」
「お前がやらないのなら、私がやる」
「いえ。やります。私がやる」
キリアは右手をリングに通した。リングはキリアの右手にぴったりだった。そして、扉に歩み寄る。リングをはめた右手で扉の取っ手を掴んで引いた。
扉は想像以上に軽く音もなく開いた。”炎《ホノオ》”の扉のときと同じだった。風がわずかに吹き出てきて顔にかかった。扉の奥には、暗い通路が見える。
「……これは、確かに、中に入ってくの勇気要るわね……」
キリアは一歩後ずさって振り返った。
「もしかして、」
それに気付いたリィルが呟いた。
「あのとき、実は俺達、とんでもないところに入っていったんじゃあ……」
「どういうことだ、リィル?」バートが聞き返す。
「だってほら、”炎《ホノオ》”の扉と同じだろ?」
とリィルが答える。
「あのとき俺達は、洞窟か何かに入っていく感じで入っていったけど、今回は、あの扉の裏、何もないんだよ。あの中は多分、異次元空間……? もしかしたら、”炎《ホノオ》”の扉のときもそうだったんじゃないかな。あのときも俺達、異空間……この世に存在しないはずの空間に足を踏み入れちゃってたのかも」
「今頃気付いたのか、リィル」エニィルが笑った。
「父さん……厳しいね」
リィルがため息をついて肩を落とす。
「異次元空間……素敵ね!」
サラが瞳を輝かせた。
「早速入ってみましょう、キリア!」
キリアはくすっと笑った。
「サラは本当に大物ね。よし、行くか!」
キリアは中に足を一歩踏み入れた。そこは、塔の屋上ではない場所。多分、異次元空間。感じとしては”炎《ホノオ》”の扉の中の通路と同じだった。知らなかったとはいえ、あのときだって無事に出てこられたんだから、と心を落ち着かせる。
七人は扉の中の通路を進んだ。キリアの真後ろを歩くリスティルがランプで前方を照らしてくれた。通路の奥からは、わずかだが風が吹き出てきているように感じる。「風」――? 風、だろうか?
キリア達は「部屋」に辿り着いた。想像通り、”炎《ホノオ》”の扉のときとほとんど同じだった。天井から降り注ぐまぶしい光。高い石の壁にぎっしりと掘り込まれた超古代語。そして部屋の中央に立つ、奇妙な像――大精霊”風雅《フウガ》”。その像を見ていると、胸がいっぱいになるような、息苦しいような、威圧感を感じた。これがさっき感じた「風」の正体なのだろうか。この像から感じるのは、尽きることのない風の精霊の力、のようなもの。
かつてここに足を踏み入れ、超古代の技術《テクノロジー》に恐怖し、二度と手を触れるつもりがなかったと言っていたキルディアスとリスティル。この場に立つ彼らは今、一体何を思っているのだろう。
「じゃあ、キリアちゃん」
エニィルがキリアに声をかけた。
「今から、”風雅《フウガ》”の力をその腕輪に宿すから。右手をこの像に掲げてくれないかな」
「はい」
キリアは答えて、”風雅《フウガ》”の像に近付こうと一歩を踏み出した。どくん、どくん……と自らの鼓動が頭の中で鳴り響いている。口の中がからからに乾いている。
――怖い。
と、キリアは思った。どうしても”炎《ホノオ》”の扉のときのことを思い出してしまう。”炎《ホノオ》”の力を得た途端、絶叫しておかしくなってしまったバートの姿が、頭から離れない……。
キリアは心を落ち着けようと、大きく深呼吸してみた。
「怖い?」
エニィルが優しく尋ねてくる。
「……少しだけ」
キリアは正直に答えた。
「怖いのは無理もないことだ。僕も強要はできないから……やめても良いんだよ」
「いいえ、大丈夫です」
キリアはきっぱりと答えた。自分以外の誰が、”風雅《フウガ》”の力を得られるというのだろう。自分はこの塔の主、大賢者キルディアスの孫で、それは動かせない事実なのだ。これは、もう運命なのだ。昔から決まっていたことなのだ。
キリアは覚悟を決めて、顔を上げて右手を伸ばして”風雅《フウガ》”の像に掲げた。
「――」
エニィルが何かを言ったようだった。
「!」
突然、凄まじい衝撃に身体を貫かれた。声は出なかった。地面が大きく揺れて、目の前が真っ白になった。自分の身体を支えきれなくてその場に崩れ落ちた。
「キリア!」
サラの高い叫び声が聞こえたような気がした。キリアの意識は、そこで途切れた。
(3)
古代語を書き取っていたペンをふと止めて、キリアは窓の外を見る。チチ、と鳥の鳴き声が聞こえる。一羽の銀色の小鳥が窓の外をすいっと横切っていった。キリアは椅子から立ち上がり、窓のところへ歩く。そして、その窓から外へ飛び出した。さっきの銀色の小鳥を追って、自らの銀の翼を広げて。全身で風を受ける。眼下にはキグリスの大草原が広がっている。大賢者の塔があんなに小さく見える。――あれ、今さっき自分は、どこから飛び立ったのだろう。自分を導いてくれるはずのあの銀色の小鳥は、もういない。自分は何故ここに、この空中にいるのだろう。どこへ行きたかったのだろう……。
ふと気が付くと、キリアは山の中の道を歩いていた。隣を同じ歩調でサラが歩いている。「ねえ、もう一度『手品』見せて」とサラが言った。私できないわよ、と答えようとすると、「良いよ」と声がした。振り返ると、黒いスーツに黒いシルクハットを被ったエニィルが立っていた。彼は左手でシルクハットを持つと、右手で中から青い小鳥を取り出してみせた。すごいすごい、とサラが喜ぶと、エニィルはサラに微笑んだ。
「このくらい君にだってできるはずだよ、ピアンの王女様」
「……私は?」
キリアはエニィルを見上げた。私には言ってくれないの?
そこでキリアははっと我に返った。白く高い天井を見上げていた。背中に感じる柔らかな弾力が心地良い。キリアは大賢者の塔の自室のベッドの中にいた。
扉を開ける音が聞こえ、そちらに目をやるとリスティルが入ってくるところだった。
「キリアさん……良かった」
目が合ってリスティルが微笑んだ。
「リスティル……」
キリアは呟いた。リスティルはこちらに歩み寄ってきた。
「あれからどうなったの?」
キリアはリスティルに尋ねた。そのとき、リスティルの右手が手首まで白い包帯に包まれていることに気がついた。
「リスティル、その右手は?」
言いながらキリアは自分の右手首にはめた腕輪《リング》のことを思った。自分の体温と同じ温度の金属の感触を感じる。
「貴女は丸一日眠っていたんですよ」と、リスティルは言った。
「みんな心配していました」
「え、じゃあ、次の日になっちゃったの? みんなは?」
「皆さんにはこの塔に泊まっていただきました」
「で、リスティル。その右手は」
「大した怪我ではありません。自分で治癒しました」
「なんでそんな怪我したの」
「ちょっとした不注意で」
リスティルはそれだけ言って口をつぐんだ。リスティルは案外こういうところがある。それ以上聞き出すのは無理だと思った。
キリアは大きく息をついた。
「……ごめんなさい」
「この怪我は貴女の所為ではありません」
「あ。えーと、そうじゃなくて」
「何です?」
リスティルは穏やかな瞳をキリアに向けた。
「だって、随分遅くなっちゃったじゃない、ここに帰ってくるの。連絡もしないで」
「そのことですか」リスティルは笑った。
「おじいちゃん、怒ってた? リスティルは怒ってる?」
「色々トラブルに巻き込まれていたのでしょう。ご苦労様でした」
「違うの」
キリアは一度ぎゅっと目を閉じた。
「……自分の意思だったの、ずっと帰らなかったの……ごめんなさい」
「何か主張したそうですね、キリアさん」
リスティルは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
「外の世界の旅が楽しくて……塔の中よりもずっと。私、それを知っちゃったの。だから帰りたくなくなっちゃったの。ごめんね、リスティルは色々なこと教えてくれたし、大好きだし、おじいちゃんも大切な人で尊敬してる」
リスティルは黙って聞いていた。
「だから、これからも、みんなで――サラやバートやリィル達と一緒に旅を続けたいの。良い?」
リスティルはにっこりと微笑んで答えた。
「勿論です。貴女がそう望むのなら」
「リスティル!」
「外の世界から色々学ぶことも必要でしょう」
「ありがとう!」
叫んでから、キリアは少し心配になって言ってみた。
「リスティルも、どう?」
「はい?」
「私達の旅に一緒に……。外は良いわよ。みんな良い人だし」
「お誘いありがとうございます。でも、そんな気を使わないで下さい」
「だって、リスティルだって私と同じで、長い間塔に閉じ込められて……」
「これでも、私、若い頃はけっこう各地を旅して歩いてたのですよ」
と言って、リスティルは微笑んだ。
「そっかあ……」
キリアはリスティルの若い頃を想像してみた。彼ってあのサイナスさんの弟なのよね……と思うと、少しだけ納得してしまう。
「あ」
キリアは思い出して声を上げた。
「旅の途中で、久しぶりにリネッタとサイナスさんに会ったの。あと、ウィンズムにも……彼、従弟《いとこ》なんでしょ?」
キリアとリスティルがその話題で盛り上がっていると、会話の途中で、部屋の扉が開いてサラとバートとリィルが入ってきた。
「キリアっ!」
サラが叫んで急いで駆け寄ってきた。
「みんな!」
「良かったあ……」
サラが涙ぐみながら、ベッドのかたわらにしゃがみこんだ。
「まったく、心配かけやがって」とバートが言う。
「あ、一応心配してくれたんだ」
いつもの調子で軽く言うと、
「バカ、当たり前だろ」
バートは真顔で返してきた。
「はは……ごめんごめん。あれくらいで気絶しちゃうなんて、私もまだまだ修業が足りないわね」
「キリア、本当に大丈夫? 普通に喋ってるように見えるけど……」
リィルが尋ねてくる。
「うーん、まだちょっと身体が重い感じだけど、気分はすっきりしているわよ」
「本当に心配したのよ、みんな」とサラ。
「ありがとう。……ところで、エニィルさんとおじいちゃんは?」
キリアが尋ねると、リィルが大きくため息をついて答えた。
「……ちょっとやばいよ、あの二人」
「え? やばいって?」
キリアはどきっとした。
「朝から二人っきりで部屋にこもっちゃって。父さん責められてるんじゃないかな。キリアに怪我させちゃったから」
「えええっ」
キリアは思わず大声を上げた。
「何それ。私の所為で……エニィルさん全然悪くないのに。おじいちゃん止めなきゃ」
身体を起こしかけたキリアを、サラが「まだ無理しちゃだめよっ」と押し留めた。
「それに、キルディアス様の気持ちもわかるわ。キリアは大切なお孫さんだもの」
「大切な?」
「だって、めちゃくちゃ箱入りじゃん、キリアって」
リィルが笑って言った。
「うー」
キリアはうなった。確かに言われてみればそうかもしれない。ずばりと言われて何だか気恥ずかしい。
「では。私はそろそろ」
リスティルが立ち去ろうとしたので、キリアは呼び止めて言った。
「エニィルさんが窮地に立たされてるようだったら助けてあげて。私がそう言ってたって伝えて」
リスティルは了解して部屋を出ていった。
「あの人がリスティルさん」
後姿を目で追ってサラが呟いた。
「確かリネッタの兄貴だったよな」
「あれ。よく覚えていたね、バート。なんか優しそうな人だね」
と、リィル。
「っていうか、キリアに甘そう」
「どうせ甘やかされて育ったわよ。おじいちゃんは厳しかったけど」
「でも、キリアのおじい様も、リスティルさんも、キリアのことすっごく大切にしてるって感じがするわ」
とサラが言った。
「……うん。そうね」
キリアは微笑んだ。
「そうだ、私、みんなに聞きたいことがあるんだけど」
「何、キリア?」
「リスティルの右手……リスティルは何も話してくれなかったんだけど、どうしちゃったの?」
それを聞いて、三人は一瞬お互いの顔をうかがったようだった。
「……ねえ、まさか。リスティルは否定してたけど……もしかして、私、が……?」
キリアが言うと、違う違う、と、三人は慌てたように首を振った。
「お前の腕輪《リング》を外そうとしたんだ」
とバートが言った。
「腕輪《リング》を?」
「キリアが気絶しちゃったすぐ後で、」
とリィルが言う。
「リスティルさんがキリアの右腕の腕輪《リング》を外そうとして触ったんだ。そしたら、すごい衝撃で、右手のひらがざっくりと」
「…………。そう、そんなことが……」
キリアは言いながらゆっくりと上半身を起こした。自分の身体なのにやけに重くて、苦労しながら上半身を起こした。膝の上に右手を置いて、改めて腕輪《リング》を見た。腕輪《リング》は鈍い銀色の光を放っている。
「キリアもうかつに触らない方が良いんじゃない……って。もう触ってるわよね、右手首。キリアが触る分には大丈夫なのかしら。他の人が触るとだめなのかしら」
「試してみるか」
いきなりバートが手を伸ばしてきたので、キリアは慌てて自分の右手を引っ込めた。
「ちょっと何すんのいきなり。危ないかもしれないでしょ」
「でも、試してみねーとわかんねーだろ」
「良いわよ別に試さなくたって。私がこうやって持ってれば良いんだから」
「バートの剣も、そうなのかな」
と、リィルが言う。
「大精霊の力を宿した『鍵』ってのは、『持ち主』以外は触《さわ》れなくなっちゃってるのかも」
「そうなのかしら。だとしたら、それって不便ね……」
サラが残念そうに呟いた。