「サラ!」
草原に倒れたピアン王女を見てキリアが絶叫した。リネッタも同時に言葉にならない悲鳴を上げていた。キリアは真っ先にサラに駆け寄るだろうと思っていたが、キリアはリネッタを振り返って、それからエンリッジを見た。
「エンリッジ、サラのことお願いっ!」
キリアは短く叫ぶと乗用陸鳥《ヴェクタ》の手綱を握ってその背に飛び乗った。赤い翼の女を見据えて猛スピードでヴェクタを走らせる。
「ああ、まかせろ」
エンリッジはすぐにサラに駆け寄った。リネッタとウィンズムもエンリッジを追う。
サラは胸を押さえて草原に横たわっていた。白いワンピースとその生地を握りしめた指が血で赤く染まっている。苦しそうに呼吸を繰り返している。
「姫様……!」
それしか言えなくて、リネッタは唇を噛んだ。
「リネちゃん……」
薄目を開けて、サラがリネッタを見る。
「ごめんなさい……あたし……」
「喋らなくて良いから! 大丈夫……大丈夫だからね……」
泣きそうになるのをこらえながら、リネッタはすがるようにエンリッジを見上げた。エンリッジはサラの傷の様子を診て言う。
「大丈夫、傷はそんなに深くない」
エンリッジは右手をかざして治癒を開始した。あたたかい光がサラを包み込む。大丈夫、と聞いてリネッタはひとまずほっとしたが、リネッタの後ろでウィンズムが低く呟いた。
「……姫の様子がおかしい。『毒』じゃないのか? 医者」
「ああ、多分」
サラを治癒しながら、厳しい表情でエンリッジはうなずいた。
「何それ、どういうこと?!」
リネッタはサラの左手を両手で握りしめながら二人に尋ねた。その手は熱かった。サラがくり返し吐き出す息も荒く、熱い。
「刃物に毒が塗ってあったんだ」
と、エンリッジが答える。
「毒が? ……でもアンタ医者なんでしょ、解毒くらいできるんでしょ」
「今すぐにはできない。適切な解毒薬が手元にない」
「じゃあ、どうするの」
「医院に取りに行ってくる。心当たりはいくつかあるが……」
そこまで言ってエンリッジは言いよどんだ。続きは言わなかったが、リネッタには彼の心の声が想像できた。もしリンツに『適切な』解毒薬が無かったら……?
「とにかく、俺は行ってくる。リネッタ達はここ、たのむな」
「うん……」
リネッタはうなずいてサラの手を握る両手に力をこめた。
「ウィンズム……」
リネッタは背後に立つウィンズムを見上げる。ウィンズムはリネッタの頭をぽんぽんと叩いた。
「……解毒薬なら、『あの女』が持ってるかもしれないな。奪ったほうが早いだろう」
「あの女?」
ウィンズムの言葉を繰り返してリネッタははっとした。
「冴えてる、ウィンズム!」
「……上手い具合にあいつが足止めしているみたいだしな」
「キリア、でしょ。味方の名前ぐらい覚えなよ」
*
――あの女、許さない!
草むらに倒れたサラを見てキリアは声を上げた。やっぱり王の命を狙う暗殺者にのこのこ近付いてしまったサラが甘かったのだ。それを黙認してしまった自分も甘かったのだ。これでもしサラにもしものことがあったら……悔やんでも、悔やみきれない。
キリアはちらりとエンリッジを見た。エンリッジに、というのは少々不本意なのだが、任せられることは任せよう、と思った。彼は一応『医者』なのだから。
「エンリッジ、サラのことお願いっ!」
キリアは短く叫ぶと乗用陸鳥《ヴェクタ》の手綱を握ってその背に飛び乗った。「ああ、まかせろ」という彼の声を聞きながら、赤い翼の女を見据えて猛スピードでヴェクタを走らせる。
女の飛ぶスピードは速かった。これ以上距離は縮まらない、と悟ると、キリアは女に狙いを定め、精神を集中させた。
(風の精霊――!)
キリアは右手を空にかざし、召喚した力を女に向けて一気に放った。「風」は女の軍服の何箇所かを同時に切り裂き、血飛沫《しぶき》が上がった。女は振り返ってキリアを見とめると、赤い翼を大きく広げて地面に下りてきた。右手で短剣を抜いて構える。
「どうやらただでは帰してくれないみたいね」
女はキリアを睨《にら》み付けて言った。切り裂かれた軍服からは血が滴り落ちている。
「当たり前よ! サラを傷つけてただで帰れると思わないでよ!」
ヴェクタの上から見下ろしてキリアは叫ぶ。
「もし、サラにもしものことがあったら……! アンタは絶対に生かして帰さない!」
「それは困るわ。ピアン王女は死んだも同然だけど……」
「何ですって!」
「あたしは必ずクラリス様のもとへ帰ってみせる。アンタを殺してね」
女は短剣を構えて一気に間合いを詰めてきた。精霊使いであるキリアは接近戦は苦手だった。精霊を発動させるのには時間がかかる。そのためには距離を置いて戦う必要がある。急いで女との距離を離そうと思ったが、ヴェクタに乗っていてはすぐに女の動きに対応できない。いつもならこんな些細なミスは犯さないのだが、今回はサラのことで冷静さを欠いていたのだろう。キリアは素早く発動させられるような小さめの精霊術を使うことにした。
至近距離まで間合いを詰めた女がキリアに向けて短剣を投げつけようと振りかぶった。同時にキリアは風の術を発動させた。風の刃は女の右手を傷つけ、女があっと声を上げた。女の手を離れた短剣はキリアを大きく反れてキリアの背後の草むらに突き立った。
何気なくそちらを見やってキリアは驚いた。草むらに突き立った短剣を拾い上げる銀髪の少年の姿。ウィンズムがいつの間にか追いついてきたのだった。キリアが何か言おうとした瞬間……ウィンズムは素早くその短剣を女に向けて投げつけた。
ウィンズムの手を離れた短剣は正確に女の胸に突き刺さった。
「きゃあああああ!」
女が胸を押さえて高く絶叫する。この世のものとは思えない絶叫にキリアは耳をふさぎたくなった。
「……俺もナイフ投げは得意なんだ」
ウィンズムがボソリと呟いた。
「……お見事」
キリアはヴェクタから飛び下りてウィンズムに並んだ。
「……あの女の短剣には毒が塗ってある」
と、ウィンズムは言った。
「ちょっとでも斬りつけられていたらお前もアウトだったな」
「え……じゃあサラは!」
キリアは顔色を変える。
「……傷自体は浅かった。解毒薬を使えば助かるだろう」
「解毒薬……って。エンリッジ持ってるの?」
「……わからん。でも、あの女なら持ってるだろう」
「あ……そうか!」
キリアは胸を押さえて苦しみにのたうつ女を見た。彼女も自分の毒を喰らったのだ。持っているのなら解毒薬を出すはずだ。
女は懐から茶色の小瓶を取り出し、キリアたちを見た。
「……わたくしにこれを出させることが目的だったのね、やるじゃない……」
「わかってんならよこして、早く!」
キリアは叫ぶ。
「フフ……」
ファオミンは苦しげに笑った。
「この瓶は……渡さないわ、絶対に!」
ファオミンは手にした小瓶を地面に叩きつけた。硝子《ガラス》が砕ける音。茶色の小瓶は粉々に砕け散り、破片と中身を地面にばらまいた。
「なんてことを!」キリアは叫んだ。
「アンタ自分だって……命惜しくないのっ?!」
「おあにくさまね……」
ファオミンはキリアを見て、薄笑いを浮かべた。
「わたくしは自分の使う毒には慣れているのよ。だから効きが悪い。多少具合が悪くなってもこの毒で死ぬ、ってことはないわ」
「そん、な……」
キリアは絶句する。
「アハハハハ……!」
ファオミンは天を仰いで高い声で笑った。
「これでピアン王女が助かる道は潰《つい》えた! ピアンは終わりね! クラリス様、やりましたわ……っ!」
そこまで言って、ファオミンは完全に意識を失ってがっくりとその場に崩れ落ちた。ウィンズムが素早く近付いてファオミンの鳩尾《みぞおち》に拳を入れたのだった。
「……コイツ、どうする?」
ウィンズムがキリアを振り返り、意識を失ってうつ伏せている赤い髪の女を指して尋ねた。
キリアは大きく息を吸い込んで心を落ち着けようとしていた。これでピアン王女が助かる道は潰《つい》えた、という女の高い声が耳に残っている。この女を今ここで殺すのは簡単だ。それでサラが助かるのなら迷わずそうするだろう。でも……
「ピアン王に引き渡す」
キリアははっきりとした口調で答えた。
「……わかった」
ウィンズムはどこからともなく取り出したロープで女を縛り上げ始めた。
(4)
ガルディアの暗殺者ファオミンの毒を受けたピアン王女サラは医院のベッドで眠っている。エンリッジがサラを助ける手段を持っていないと知ったキリアは、随分とひどい言葉を彼にぶつけてしまった。完全な八つ当たりだった。そのことは今では猛反省している。そのときリネッタも言っていたが、一番辛いのはきっと医師である彼なのだ。それに何もできないのはキリアだって同じなのだ。
ベッドに横たわり、苦しそうな呼吸を繰り返すサラ。まだ泣かない、とキリアは唇を噛みしめる。まだサラは生きている。サラだって頑張っているのだ。エンリッジたち医師団も何とかサラを助けようと奔走しているのだ。まだ諦めない。
ファオミンを捕らえている、というのが唯一の希望だった。ファオミンはリンツの地下牢に厳重に監禁されることとなった。もし王女が助からなかったら死を、というのが王宮関係者たちの大半の意見だった。しかしピアン王は静かに首を振り、彼女は絶対に殺すなと命を下した。ガルディアの者を生かして捕らえておくことはこちらの益になる、というのだ。
「申し訳ありません……」
ピアン王の前でキリアは顔を上げられなかった。
「そなたが申し訳なく思う必要はない」と王は言う。
「サラがああなったのは、サラの責任だ」
そうではなくて、とキリアは思う。キリアは悔しかったのだ。自分がついていながら、ピアン王女を、いや、サラをこんな目に遭わせてしまったのだから。自分が許せなかった。
キリアは一歩一歩踏みしめるようにリンツのメインストリートを歩いていた。向かう先は、ファオミンが囚われている地下牢だった。彼女からサラを助ける方法を聞きだすのは難しいだろうと思う。たったひとりでリンツに来るなんて、相当の覚悟があったに違いない。
(それでも、やってみなくちゃ……!)
薄暗い地下牢に下りると、ディオル将軍が灯りを掲げて立っていた。キリアを見とめて静かに会釈する。
「王女の様子は?」ディオルが尋ねてきた。
「相変わらずです」キリアはうつむいた。
「そうか……」
「それで、ファオミンは」
「こっちも相変わらずだ」
ディオルは灯りを掲げて歩き、ある鉄格子の前で立ち止まった。ぐったりと床に横たわる赤い髪の女が照らし出される。
「彼女もまだ意識が戻らない」とディオルは言う。
「最悪、毒でこのまま死ぬという可能性もあるだろう」
今のキリアにはこの女の生死なんてどうでも良かった。ただ、この場にこれ以上いてもサラを助ける方法は見つからないとわかっただけだった。
キリアは地上に上がり、外に出た。傾き始めた陽が高い空から照らしてきてまぶしかった。空は憎たらしいほど青く澄み切っていた。その青はサラの瞳の色だ。
「キリア?!」
ふいに自分の名を呼ぶ声が聞こえた。心臓がどきん、と音を立てた。キリアは声のしたほうを振り返った。駆け寄ってくる二人の足音。もう目の前だった。
――あんなに再会を待ち望んでいたのに。キリアはまともに視線を合わせることができなかった。
「おいキリア、しっかりしろよっ」
肩をつかんで揺さぶられた。
「何があった? 話してくれないか?」
落ち着いた声で問いかけてくるもう一人。
「サラが……」
そこまで言って、キリアはこらえきれなくなって涙をこぼしてしまった。
「ごめんなさい……私……」
「サラが?!」
「父さんの伝言は? ファオミンは?」
「伝言は見たの……」
キリアは力なく呟いた。
「それで城壁の外で迎え撃って……そのときサラが、毒を……」
「毒……」
「それで解毒薬が……もう助からないって、アイツが……」
「……リィル」
バートがリィルを見た。
「ん」
リィルはうなずいて、上着の胸ポケットから何かを取り出してバートに手渡した。
「こんなこともあろうかとは思ってたけど……まさかサラが、ね……」
「おいキリア、サラのやつどこにいる?」
「大丈夫、助かるよサラは」
「え?」
キリアは顔を上げて、バートとリィルの顔を見た。二人とも真剣な顔をしていて、でも絶望はしていない。
「助かるって、本当?」
「父さん!」
リィルが後ろを振り返って叫んだ。こっちに向かって早足で歩いてくる四人の姿。ショートカットの女性はバートの母ユーリアだった。眼鏡をかけた背の高い男性に、リィルに似た雰囲気の青年。リィルと同じ茶色の髪を肩まで伸ばした女性。
「ちょっと先行ってるから!」
「走るぞ、キリア。案内してくれ!」
「う……うんっ」
うなずいてキリアは走り出した。すぐ後ろを走ってついてくる二人。夢と現実の境目を走っているようだった。高い空から照らす陽がまぶしくて、目がくらんで倒れるんじゃないかと思いながら走った。
キリアとバートとリィルはサラの眠る病室に駆け込んだ。側《かたわら》に主治医がついていて、相変わらずサラは瞳を閉じている。白い肌に赤い頬。苦しそうに乱れる呼吸。
バートはゆっくりと部屋の中央まで歩くと、サラの枕元にかがみこんだ。
「サラ……」
バートは呟いた。
「無茶しやがって……」
サラの瞳がゆっくりと開《ひら》かれた。青い瞳がバートをとらえる。サラは精一杯の笑顔をつくって言った。
「バート……おかえりなさい」
「ああ。ただいま」
サラと視線を合わせて、バートもわずかに笑みを浮かべた。
バートはサラの背を支えながらゆっくりと上半身を起こさせた。手にした瓶のふたをあけると、サラの口元に持っていって飲ませてやる。サラは何も問わずにその液体を飲み込んだ。
「もう大丈夫だからな」
バートに言われて、サラは微笑んでうなずいた。バートに背を支えられながら、再びサラは身体を横たえた。
「解毒薬だよ」
リィルの声がしてキリアはリィルを見た。
「効き目は保障つきだから、大丈夫」
「そう……良かった……」
キリアは大きく息を吐き出した。体中から力が抜けてその場にへたりこんでしまった。まだ意識は夢と現実の狭間をふらふらと漂っているような感じだった。
*
サラの病室にピアン王が入ってきて、エンリッジたち医師団が駆け込んできて、アルベルト将軍やディオル将軍、リネッタやウィンズムたちもやってきて……大勢になってしまったのでいったんキリアたちは病室を出ることにした。廊下にも人が溢れていてキリアたちは医院からも出ることにした。
ゆっくり話ができるところに移動しようか、ということになって、キリア、バート、リィル、ウィンズム、リネッタの五人は中央公園に向かった。この頃になってようやく、これは現実なんだという実感が戻ってきた。サラは無事に助かりそうで、バートとリィルもちゃんとリンツに帰ってきてくれたのだ。それはとても嬉しいことなんだと思う。自分がこんなに冷静なのはどう喜んで良いかわからないからなのだろう。
「二人とも無事で良かった……って言いたいとこだけどさ」
バートとリィルの姿を見て、リネッタが言った。
「……あんまり無事ではなかったようだな」
とウィンズム。
「まあ、色々あったんだよね……」
リィルが言い、バートもうんうんとうなずいた。バートは上着の下に包帯を巻きつけていたし、リィルも左肩に包帯を巻いていた。しかも「どうしてタイミング良く解毒薬持ってたのよ?」と問い詰めると、リィルも同じ毒で死にかけていたということが判明した。まあ無事だったから良かったようなものの、とキリアはため息をついた。自分がその場にいたらと思うとぞっとする。
「キリア、ごめんっ!」
リィルが両手を合わせて頭を下げた。
「怒ってる……だろ?」
「うん、すごく」
キリアは微笑をリィルに向けた。
「でも大事なところでサラを助けてくれたから帳消しにしてあげる」
それを聞いてリィルはほっとしたような笑顔になった。そして、「ちょっと」と言ってキリアの手を引いてバートとリネッタとウィンズムから遠ざかる。三人から十分に距離を取ったところで、リィルは少し言い辛そうに口を開《ひら》いた。
「でさ、キリア……」
「ん? なあに?」
「……返事、聞きたいんだけど」
「は? 何の?」
「まずはイエスかノーか」
「だから何のこと?」
「あれ? 届いてない?」
リィルが顔色を変える。
「エニィルさんからの伝言?」
「その後のもう一通。キリア宛に俺から」
「知らないわよそんなの」
キリアは首を横にふる。リィルはうっとか呻いて顔を赤らめた。そんな表情初めて見た。
「じゃあ俺の送ったやつ、どこ飛んでったんだよー!」
青空を仰いでリィルは叫ぶ。
「やっぱ父さんの見よう見まねで成功するわけなかったかーっ」
はあ、とため息をついて、リィルはがっくりと肩を落とした。
「何送ったの、私宛って」
キリアは問い詰める。
「ノーコメント」
と言ってリィルは口を閉ざす。
「イエスかノーかってまさか……違うわよねっ?」
「……そっちのほうが良かった?」
リィルが力なく聞き返してくる。
「別に」
キリアはそっけなく答えた。
(第2部・完)