ピアン王国、リンツの町。
その日の朝、キリアは宿屋の一階の食堂で遅めの朝食をとっていた。同室に泊まっているリネッタとウィンズムも一緒だった。コーヒーを飲みながらパンをかじっていると、宿屋の女将《おかみ》がキリア宛てだと言って一通の手紙を渡してくれた。【速達、大至急、重要】と赤い太字で書かれている。差出人を見てキリアはびっくりした。差出人はエニィル――つまり、リィルの父、となっていた。リィル曰く、彼は今、ピアン王宮、つまりガルディア本拠地に捕らわれているはずなのだが……。キリアは緊張のあまり震える指で封を開けた。
読み進めながらキリアは心臓が大きな音を立てるのを抑えることができなかった。たった二人で敵の本拠地に行ってしまったバートとリィルのことは毎日ずっと気にかけていたのだ。一人で乗用陸鳥《ヴェクタ》に乗って後を追おうとしたくらいだった。それを実行しようとしたところ、運悪く(?)エンリッジに見つかって止められてしまったのだが。
エンリッジは、今まで一緒に旅してきた『仲間』に、紙切れ一枚で『さようなら』なんてつもりじゃないだろ。あいつらは絶対にここに帰ってくる。キリアはここで待っていれば良いと主張した。あいつらはキリアたちのことを本当に思っているからこそ、二人だけで行ったんだと。帰ってくるのはキリア達の待っている『ここ』しかない、と。
エンリッジの言葉に従ってここに留まってしまったことが正しかったのかどうかはずっとわからなかった。待つことしかできない日々は、長く、非常に辛かった。答えの出ない自問自答ばかりを繰り返していた。
「で、りっさんのお父さんは何て?」
手紙を読むキリアにリネッタが尋ねてきた。
「バートとりっさんは無事お父さんに会えたってこと?」
ウィンズムは黙々と食事を口に運んでいたが、ときどきちらちらとキリアの顔をうかがっていた。やはり気にはなるのだろう。
「うん、そうみたいだけど……。……?! ちょっと待って!」
キリアはほとんど叫ぶように言って椅子をがたんと鳴らして立ち上がった。ウィンズムがぎょっとしたように食事の手を止めてキリアを見上げる。
キリアは早口で叫んだ。
「ガルディアの女将軍がピアン王を暗殺するためにリンツに向かったって。今日の昼前には到着するって!」
「ええ?!」
リネッタも叫んでいてもたってもいられないというように立ち上がった。
「……なんでそんな大事な情報を直接ピアン王に届けないんだ」
ウィンズムがぼそりと呟く。確かに、と思いつつ手紙を読み進めて納得する。
「……そっか。私宛てに出したのは『念のため』ってことだったのね。私に届いてるってことはピアン王とサラにも届いてるってことだから一安心……かな?」
「だったら『念のため』の意味ないじゃん」
とリネッタが指摘する。あ、そうか、とキリアは苦笑した。
「とにかく大急ぎでピアン王とサラのところに向かったほうが良さそうね」
「私も行く」
と言ってリネッタはウィンズムのほうを見た。有無を言わせぬ口調で言う。
「ウィンズムも行くよね?」
三人は急いで食事を済ませると、宿屋を出てリンツ中央医院に向かった。
*
医院の白い廊下を歩き、キリアとリネッタとウィンズムは王の病室に通された。室内のベッドではピアン王が上半身を起こしてこちらを見ていた。窓辺からやわらかな光がさしこみ、ピアン王の金の髪がやさしい光を放っている。サラと同じ青い瞳。王らしい威厳、カリスマ性、それでいておだやかで気さくな雰囲気も兼ね備えている。さすがピアン王、とキリアは思った。
サラは熱も下がりすっかり元気になったようだった。部屋には、ピアン王と王女サラ、キリアたち三人の他に、ピアンの軍服を着た二人の男が立っていた。アルベルト将軍とディオル将軍だとサラが紹介してくれた。アルベルトは小柄でディオルは大柄。対照的な二人だった。
「王、どうなさいますか」
緑の軍服に身を包んだアルベルト将軍が尋ねた。王とサラのもとには無事エニィルからの伝言は届いていた。
「こういう手も考えられます――。こちらに届いた伝言のことは、向こうは知らないはず。敢えてこちらは暗殺者に気が付かないふりをしてここにおびき寄せるのです。もちろん王には別の安全な場所に移っていただいて。相手を油断させておいて捕らえるのです」
「それだとガルディアの暗殺者をリンツの町に入れることになるな」
と、王は言った。
「あたしもリスクが大きいと思います、アルベルト将軍」
とサラも言った。
「リンツを囲う城壁の外、城門前で、正々堂々と暗殺者を迎え撃つべきです」
サラの言葉に、青の軍服に身を包んだディオル将軍が静かにうなずいた。
「それだと兵を分散させることになりますが」とアルベルトは言う。
「敵はおそらくピアン首都方面、つまり南門から現れると思いますが、念のため北門と王のおそばにも配置しておいたほうが良いでしょう」
「私たちにも協力させて下さい」とキリアは言った。
「サラの――ピアンのお役に立ちたいんです」
「大賢者キルディアスのお孫さんであったな」
ピアン王はキリアを見た。
「感謝する。これからもキグリスとピアンが良い関係を築いていけることを願う」
「私もです」
キリアは答えた。
*
サラとキリアたちは南門、アルベルトは北門に向かった。ディオルは王のいる医院の守りにつくことになった。いくつかの小隊にも連絡を取り、準備が整い次第各門と医院の守備にあたることになった。
メインストリートを南門目指して駆けていると、まばらな通行人の中に、私服のエンリッジの後姿があった。遠くからキリアはわかってしまったが、もちろん気が付かないふりをして追い越していくつもりだった。しかしキリアの隣を走るリネッタは見逃さなかった。
「エンリッジ!」
リネッタの声に驚いたように長髪の青年が振り向いた。
「今ヒマ? だったら一大事なの、着いて来て!」
「ちょっと、リネッタ」キリアが咎めるように言うと、
「ひとりでも多いほうが良いって。毛嫌いしてる場合じゃないでしょ、キリア」
そして、キリア、サラ、リネッタ、ウィンズム、何も知らないまま連れてこられたエンリッジの五人は南門に辿り着いた。緊急連絡用にと乗用陸鳥《ヴェクタ》も一匹連れて来ていた。南門――数日前、バートとリィルがキリアたちを置いて、ピアン首都――敵の本拠地に向けて旅立ってしまった門だ。
サラが南門を開け、五人は閉ざされた町の中から外の世界へ一歩踏み出した。一面の青空に雲の海。吹き抜ける風に草原の草が揺れる。この草原の南の遥か彼方に、今は敵《ガルディア》の手に落ちてしまったピアン首都がある。そして、そこにバートとリィルは行ってしまった。彼らは今、どこで何をしているのだろう。無事ピアン首都を脱出できたのだろうか。夢にまで見た再会の日は、今日になるのだろうか。
「なるほどな、そういうことだったのか」
ウィンズムからひととおり話を聞いたらしいエンリッジがうなずきながら言った。
「そういうことならオレ、愛用の剣でも持ってくるんだったなあ」
「……戦えるのか?」
ウィンズムが胡散臭そうにエンリッジを見上げる。
「こう見えて、エンリッジってウチのクラスで一番強かったんだよ」
と、リネッタはウィンズムに言った。
「加えて今は『治癒』もできるから戦力として大いに使え――あっウィンズムっ、アンタが使えないなんて一言もっ……拗ねないでー」
そっぽを向いてあらぬ方向へ二、三歩歩き出したウィンズムをリネッタは慌てて追いかけてその腕にすがりついた。ウィンズムがうっとうしい、とでもいうように無言で振り払おうとする。
「そういやアンタ、『バートの真似』できるんじゃない?」
リネッタが振り返ってエンリッジを見て言った。
「バートの真似?」サラが聞き返す。
「あ? ああ、『炎の精霊剣』のことか? 昔ふざけてそんなことやってたっけ……今でもできっかな……」
サラは凍りついたような微妙な笑顔でエンリッジを見上げていた。「バート」と聞いて胸の中で色々な思いが渦巻き始めたのだろう。
「……アイツらもうすぐここに帰ってくるんだってな、楽しみだな」
サラの様子を見て察したのか、エンリッジが明るく安心させるように言ってきた。ここで待ってて正解だったろ、オレの言ったとおりだっただろ、と言ってきたら殴ってやろうとキリアは身構えていた。それくらいキリアは複雑な思いを抱えていたし、おそらくサラもそうに違いなかった。
とにかく、一刻でも早く会いたい、と思う。全てはそれからだ。それしか考えられなかった。
(2)
ガルディア軍第六部隊副隊長・ファオミンは、ピアン王を暗殺すべくリンツの町を目指していた。夜通し長距離を飛び続けるのはさすがに疲労する。しかし、この大陸の人間が使う移動手段『乗用陸鳥《ヴェクタ》』よりは確実に速い。
ファオミンが動くのは、正確にはガルディアのためでもガルディアの王のためでもなかった。全ては愛する一人の男性のため。少しでも彼に近付きたい。彼のそばで役に立ちたい。
しかし、その男性は、敵地に潜入していたのだが数年ぶりに帰ってきたときには既に妻子を持っていた。敵地の女と一つ屋根の下で暮らしていたというのだ。信じられなかった。彼が言うには『敵』を確実に欺くためとのことだったが。
それにしても、そのピアンの女を殺さず捕らえて連れてくるなんて、まだ未練があるということか。愛に国境はないとかいうつもりなのか。――まだ、あの女を、ピアンに捨ててきたはずの女を愛しているということか。
クラリスが連れてきたピアン女――名前はユーリアとかいうらしい――には会わないようにしていた。顔も見たくない、というのが半分。顔を見てしまったら自分の感情を抑えられないだろう、というのが半分。いくらピアン女だからといって、さすがにクラリスがいるところで手を出すのはまずいだろう。
「?」
ファオミンは首をひねった。遠くに見えるリンツの南門の前に、自分を待ち構えるように五人の若い男女の姿があった。ピアンの兵には見えないが、待ち構え……? あり得ない。自分がリンツに向かっていることを知っているのは、アビエスとエニィルの息子だけのはずだ。思い立ったらすぐ動き、ピアンにはもちろんのことガルディアにも極力知らせず、完全に意表を付いたつもりだった。このことはガルディアの王もクラリスも『カズナ』も『メヴィアス』も知らない。完全な独断だった。成功すれば大きな益になる。そしてたとえ失敗したとしても失うものは少ない。
情報が漏れた可能性としては、アビエスが漏らしたか。あのエニィルの息子が生き延びて何らかの方法でリンツに知らせたか。あのあとあの場に誰かが来たのかもしれない。
しかし、五人だ。仰々しい兵士団が待ち構えているわけではない。きっと向こうも情報が届いたばかりで対応に追われているところなのだろう。
翼で飛んで城壁を越えることはできる。しかし塀の向こうに弓隊が伏せてあったら? 王の周囲にも兵はいるだろう。遠くから短剣を投げ少しでも傷を負わせれば仕留めたも同然なのだが、それも難しいかもしれない。
失敗か? とファオミンは唇を噛む。しかし、ただでは退けない。
ふと、南門の前に立つ少女の姿が目に止まった。――あれはピアン王女ではないだろうか? 話には聞いていた。金のウェーブのロングヘア、青い瞳の十六歳の少女。
――まだいけるわ、と、ファオミンは唇の片端をにやりとつり上げて笑った。
*
その女はひとりで草原を堂々と歩いてきた。赤い髪はウェーブがかっていて肩まで伸びている。ガルディアの軍服。エニィルが手紙で言っていたとおりの容貌。
「良い度胸してるわね、彼女」
キリアは思わず呟いた。
サラは背筋を伸ばして女のほうへ一歩を踏み出した。そのまま歩いていこうとする後姿にキリアは慌てて声をかけた。
「サラ、気をつけて!」
「彼女と話がしたいの」
とサラは答える。
「そんな……相手は暗殺者よ、話なんて通用しないわよ」
サラはキリアを振り返って微笑んだ。
「でもキリア……そういう考えが、争いを生むと思うの」
「サラ……」
キリアは何も言い返せず言葉を失った。
*
「ようこそ、ガルディアの者」
ファオミンの前で立ち止まったピアン王女サラがそう声をかけてきた。
「あら? 歓迎してくれるの?」
「用件次第です」とサラは言う。
「貴女がピアン王――父を暗殺するために来たというのなら、そして、まだその気があるというのなら、私は貴女を許すことはできません。ここにいる五人で全力で阻止します。もっとも、父を暗殺することはもう不可能でしょう。貴女の動きはこちらに筒抜けだったのですから、こちらにも迎え撃つ準備はできています。だから、大人しく引き返してくれるというのなら……」
「……アハハハ!」
ファオミンは笑った。
「あなた本当に『姫』ね」
「どういう意味?」
「甘いのよ王女!」
ファオミンは叫んだ。
「欲しいものは何でも手に入るんでしょう。身の安全は国家が保障してくれるんでしょう。わたくしは違う! 生きるってことは常に死と隣り合わせなのよ。生きるためには、望むもののためには命をかけるわ」
ぶつけられた言葉に、サラがしばし絶句する。
「貴女、ピアン首都が落ちたとき、その場にいなかったらしいじゃない。自国《ピアン》が大変なことになってるっていうのにひとりで安全な場所にいたっていうのね。貴女や貴女の父親のために何人が命を落としたと思ってるの。王女だからっていい気になってんじゃないわよ!」
「な……違う!」
明らかにサラは動揺を見せた。その顔が泣きそうに歪む。
「フフフ……悔しい? 悔しかったら……」
ファオミンは腰のベルトの短剣を一本引き抜いた。
「貴女も命かけてみせなさいよ! ピアン王女として!」
ファオミンはサラに向けて短剣を投げつけた。普通の人間なら、ましてや『姫』ならかわせるはずはなかった。ピアン王女だけでも仕留めてから帰ろうと思ったのだ。
しかしサラは投げつけられた短剣をかわした。偶然、というのではなさそうだった。武術の心得のある者の動きだった。ファオミンは短く口笛を吹いた。
「なかなかやるわね、ピアン王女」
ファオミンは二本目の短剣を抜くと素早く王女に接近して斬りつけようとした。しかし王女はそれもかわす。逆に繰り出した右手を押さえ込まれ身動きとれなくなった。
「くっ……」
関節の痛みに声を上げ、ファオミンは片膝をついた。にらみつけるように王女を見上げると……サラはその両の瞳から涙をあふれさせていた。
「な……どういうつもり? バカにしてんの?!」
思わずファオミンは叫ぶ。
「ごめんなさい、貴女の言うとおりだわ……」
ファオミンを押さえつけたまま、涙をこぼしながらサラが小さく呟いた。ファオミンにはこの王女の言動が全く理解できなかった。
「王は、王女だって国民を守るためにいるのに……お父様は国民を守るために兵の先頭に立って戦ったのに……あたしは何もできなかった……あたしもみんなと一緒に戦いたかったのに……戦うべきだったのに……」
「…………」
ファオミンはしばらく無言で涙を流す王女を見つめていたが、やがて、ふう、と息をついて抵抗する力を抜いた。
「負けたわ、ピアン王女」
「え」
「どうやら王も貴女も仕留めることは難しそうだし、今日のところは大人しく退いてあげる。それに……貴女のこと、少し勘違いしてたみたい。見直したわ、ピアン王女」
「……ありがとう」
サラはファオミンを押さえつけていた力をゆるめた。
「……なんてね」
次の瞬間、ファオミンは素早く動き王女の胸に短剣を突きたてた。王女の目が大きく見開かれる。純白のワンピースの胸の部分が赤く染まる……
「さようなら、ピアン王女」
ファオミンは笑い声を上げると、赤い翼を広げて南の空へ飛び立った。