c r o s s i n g

(1)

 リィルはバートを探してピアン王宮内を歩き回っていた。今のピアン王宮は敵《ガルディア》の手に落ちている。自分がこうして歩き回るには危険といっちゃあ危険なのだが、敵《ガルディア》の誰かと鉢合わせしたってまあ何とかはなるだろう、とリィルは楽観的に考えていた。
 バートが寝ているとユーリアに教えてもらった医務室は何故か空《から》だった。なんで部屋で大人しくしてないんだよ、手間ばっかかけさせやがって、とリィルは自分のことは棚に上げて思っていた。しかしリィルはバートの身体のことも心配していたのだ。バートは自分と違って今動き回れるような状態《ケガ》ではなかったはずなのだ。
 そんなことを考えながらひとりで王宮の廊下を歩いていたリィルは、ある扉の前で、突然ぴたりと足を止めてしまっていた。
 (え?)
 扉の向こうの話し声が耳に届いたのだった。一瞬耳を疑う。……すごいことを聞いてしまったぞ、と思った。本当だとしたら、大変なことだ。どうする? どうしよう……そんなことを頭フル回転で考えながら呆然と立ち尽くしていると、扉が開いた。リィルは驚いて一歩後ずさった。
 中からガルディアの軍服に身を包んだ二人――男性と女性だった――が現れた。二人ともリィルと目が合って立ち止まった。しまった、とリィルは思った。男性の方は見知った顔だった。赤い長髪に眼鏡をかけた――
 (アビエス!)
 リィルと目が合ってアビエスはにっこりと微笑んだ。
 「おや。貴方は」
 「知ってるの、アビエス?」
 女がアビエスを見て言った。女も赤い髪をしていた。ふわふわのウェーヴヘアが肩にかかっている。つりあがった目にきつい顔立ち。真っ赤に塗った唇。ガルディアの軍服に身を包み、腰のベルトには何本もの短剣を挿していた。
 「ええ」とアビエスはうなずいた。
 「『彼』には三人の子供がいると言ったでしょう。長女と、長男と、次男と――」
 「じゃあ、もうひとりのエニィルの息子?」
 女は甲高い声を上げた。
 「何でこんなところに? アンタもしかして、今の聞いてた?」
 「い、今の……というと?」
 とっさにリィルはとぼけてみせた。でも、この女はどうか知らないが、アビエスは騙せないかもしれない。
 「ま、どっちでも良いわ」
 女は真っ赤な唇でにやりと笑った。腰の短剣を一本抜く。
 「殺っちゃって良いかしら? アビエス」
 「口封じ、ですか」
 「そうよ。今の話聞かれたからには生かして帰せないでしょ」
 「でも、息子が殺されたと知ったら、エニィルはますます口を閉ざすでしょうね」
 「知ったこっちゃないわ」女は眉を吊り上げた。
 「むかつくのよアイツ。カズナ様に向かってあのふてぶてしい態度! 何様のつもり? 息子二人いるんだもの、一人くらい殺っちゃえば良いんだわ。少しは思い知るでしょうよ!」
 リィルは得体の知れない寒気を感じた。この女から発せられる、異様な殺気。向こうは二人、こちらは一人。簡単に殺られるつもりはないが……
 (ちょっと軽率だったかな……しくったかも)
 リィルは水の精霊を使おうと意識を集中させる。女は短剣片手に一気に間合いをつめてきた。接近戦は不利だ、とリィルが後ろに下がろうとしたとき、女は素早い動作で短剣を投げつけてきた。
 「!」
 リィルは短剣を避けようと身をひねった。自分ではかわしたつもりだったが、左肩を何かがかすった感触があった。ずきりと痛む。リィルは自分の左肩を見た。服が裂け、血が流れ出ている。でも大した怪我ではない――と思ったとき。
 突然身体が重くなった。よろめいて両膝をつく。どきん、と心臓が大きな音を立てた。すぐに立ち上がろうとするが、視界がぐるりと回ってまた膝をついてしまう。自分の心臓の鼓動がやけに大きく、早く聞こえる。何故か息が上がってくる……
 「フフフ……大丈夫ぅ?」
 赤い髪の女が一歩一歩、ゆっくりと近付いてきた。顔を上げることすら辛くて目を閉じてうつむく。床に手をついて大きく肩を上下させながら、なんとか呼吸を落ち着けようとする。
 「やはり良く効きますね、その毒は」
 アビエスの声が聞こえた。
 「ええ。わたくしの短剣でほんの少しでも傷つけられた者は、じわじわと身体が利かなくなり、苦しみながら確実に死に至る……」
 「残酷ですね。止めは刺さないのでしょう」
 「だって放っておいたって死ぬんだもの。止めさすのとどっちが残酷なのよ」
 「さあ」
 アビエスがふっと笑ったようだった。
 「ねえ、聞こえる?」
 女の声が間近で聞こえた。リィルは何とか目を開けて、きっと女をにらみ据える。
 「知ってて何も出来ないって、辛いでしょう? ウフフ……じゃあ。わたくしは行ってくるわ。ピアン王にも同じ苦しみを味わってもらいにね。ウフフ……」
 女は本当に可笑しそうに笑った。
 「じゃあ、後は任せたわアビエス」
 「任せるって」アビエスが聞き返す。
 「好きにしちゃって良いわ、その子。可哀想だと思ったら楽にしてあげれば?」
 女が遠ざかっていく足音が聞こえる。女の言ったとおりだった。リィルには女が去っていくのを止める力はなかった。悔しさで胸が熱くなる。
 (サラ……、キリア……、みんな……!)
 リィルはリンツのサラやキリアやピアン王、ウィンズムやリネッタやエンリッジ医師のことを思った。このままでは、リンツが……!
 「行ってしまいましたね」
 アビエスの声が聞こえた。
 「さあ、どうします? お望みとあればすぐに楽にしてあげますよ」
 「……」
 リィルは黙ったまま右手で左の袖の部分を引きちぎった。引き裂いた布で右手だけで器用に肩の傷をしばる。応急処置を終えると、リィルは静かに覚悟を決めて立ち上がった。まだ自分にできることはある。
 戦意を失っていないリィルを見て、アビエスは目を細めた。
 「私と戦《や》る気なのですか? どうせ死ぬとわかっているのに、戦ったところで何になります? 貴方は賢く冷静な子でしょう。敢えて無駄なことをしようとは思わないはず。……何か考えがありますね」
 「それは買いかぶりすぎですよ……アビエスさん」
 リィルは笑った。
 そう、まだ自分にできることはある。目の前のこいつを振り切って、何とか父さんの元に帰るのだ。そうすれば、きっと父さんなら。
 「では、君のその根性に免じて、ひとつ良い事を教えてあげましょう」
 そう言って、アビエスは懐を探ると、小さな茶色の小瓶を取り出して掲げた。それを見てリィルは息を呑んだ。
 「……それは、まさか」
 「ファオミン――彼女の使う毒の解毒薬です。ガルディアの幹部クラスの者はもしものときのために全員所有しています」
 「…………」
 リィルはかえって警戒した。何故この男は、わざわざそんな情報を自分に教えてくれるのだろう。惑わされてはだめだ。あの茶色の小瓶は、注意をそちらに向けさせるための罠かもしれない。
 「おあいにくさま」
 リィルは微笑んで言った。
 「悪いけど俺……自分の命よりも大切なものがあるから。そっちを優先させる」
 アビエスを倒して、ましてや解毒薬を奪おうなんて考えてはいけない。アビエスを少しの間足止めして、全力疾走で父のいる小屋に帰る。それで勝ちだ。でも、自分の身体は、それまで保つだろうか。
 そのとき。
 「リィル?! どこだ?!」
 リィルは自分の耳を疑った。廊下をこっちに向かって駆けてくる足音。自分の名を呼ぶ声。
 「バート?!」
 「リィル!」
 腰に剣を挿したまぎれもないリィルの親友の姿が、こっちに向かって駆けてくるのが見えた。
 「バート、どうしてここに?」
 リィルはこのタイミングでバートが現れたことが信じられなかった。
 「なんかお前の声が聞こえて……。何やってんだ。大丈夫かその肩の怪我」
 「バートこそ。何走り回ってんだよ。まだ完治してないだろ」
 「そーでもねーぜ」
 バートは剣を抜いて構えながら言った。
 「お前の父ちゃんに治してもらったからな」
 「父さんに会ったんだ。……もしかして同じこと考えてた?」
 「エニィルさん呆れてたぜ」バートは得意げにアビエスに向けて言う。「ガルディアの治癒技術はまだまだだねって」
 そんなんで得意になってどうするんだ、とリィルはつっこんでやりたかったが、無駄な体力を消耗したくなかったので我慢した。
 「で、これ今どういう状況なんだリィル?」
 とバートが尋ねてくる。
 「お前が何かヘマしてアビエスに見つかったとか?」
 「…………」
 ほとんど図星だったのでリィルはけっこう傷付いた。でも落ち込んでいる時間はない。リィルはすぐさま立ち直って言った。
 「バート……頼まれてくれないかな」
 「ん? 内容によるけど」
 「難しいことじゃないよ。俺は今から大至急父さんに会って伝えなくちゃならないことがある。だからアイツを足止めしておいて欲しいんだ」
 リィルはアビエスを指して言った。
 「ああ。良いぜ」あっさりバートは引き受けた。
 「アイツ父親より格下なんだろ? 楽勝だぜ」
 「別に勝たなくても良いけど……うーん、あとのことは兄貴にも任せるか……」
 リィルは呟いて、大きく息を吸い込んだ。少しの間力をためて、意を決して。
 「じゃ、よろしくバート」
 一声投げて、リィルは廊下を蹴って駆け出した。

(2)

 「大した子ですね」
 リィルの後姿を目で追いながら、アビエスは心の底から感心しているようだった。
 「リィルのことか?」とバートは言う。
 「まあ、わりとな。俺も付き合い長いからわかってっけど。……さてと。お喋りはこれくらいにして、俺もあんたをちょちょいと片付けて後追っかけるか。……そういやエニィルさんに大至急伝えたいことって、何だろ」
 「あの子、あのままだと半日と経たないうちに命を落としますよ」
 「……え」
 アビエスの言葉を聞いて、バートは絶句した。
 「説明してあげましょう。あの子は偶然、私とファオミンの会話を聞いてしまったのです」
 「ファオミン?」
 その名前はバートが初めて聞く名前だった。
 「ええ。彼女はガルディア軍第六部隊・副隊長を務めています。そして彼女は、『とある理由』のため、今リンツにいるピアン王の暗殺を企てているのです」
 「……っ、何、だと……!」
 バートは事の重大さを呑み込んで青ざめた。さっきのリィルの必死の様子を思い出す。
 「それで、ファオミンとやらは!」
 「彼女はもうリンツに向けて旅立ちました。今から追ったって、どんなに速い乗用陸鳥《ヴェクタ》を使ったとしても彼女に追いつくことは不可能でしょう」
 「で、でもリィルは、エニィルさんにって」
 「彼が何を考えているかは、だいたい想像がつきますが」
 アビエスは呆れたように笑った。
 「彼、そのことを父に伝えさえすれば、自分の命なんてどうなっても良いって考えているようですね。潔いというか、諦めが早いというか……少々失望しましたよ」
 アビエスは懐から小さな小瓶を取り出すと、バートに掲げて見せた。
 「ファオミンは『毒』を使いました。あの少年はこの解毒薬を使わない限り、半日と経たないうちに全身に毒が回って死ぬでしょう。彼はこの解毒薬には見向きもしませんでしたが」
 「……」
 バートはアビエスの手にある解毒薬をじっと見た。
 「……あんたに勝てば、それを奪ってリィルを助けられるっつーわけか」
 バートはアビエスを見て言う。
 「そういうことですね」アビエスは微笑んだ。
 「私と貴方が戦う理由としては上等でしょう」
 「ああ」バートは低く呟いた。
 「上等だぜ……」

 *

 エニィルは厳しい表情でペンを走らせていた。宛名はピアン王、ピアン王女、念のためキグリスから来たキリアにも。これでおそらく、配達途中でどんな間違いがあっても最低誰か一人には届くだろう。エニィルは三通の手紙を三羽の青い小鳥に託して、小屋の窓からリンツに向けて放った。
 先ほど帰ってきたリィルは今は部屋のベッドにぐったりとその身をうずめていた。苦しそうな様子に心が痛む。彼は「自業自得」と言うだろうが、クラリスのときもそうだったが、リィルは本人無自覚でかなり無茶をやらかす性格をしているのだ。
 彼はガルディアの女将軍の使う毒を受けたらしい。治癒技術にある程度長けているエニィルにとっても毒はやっかいだった。精霊の力《エネルギー》を使えば外傷《ケガ》はふさぐことができる。しかし、体内を巡る毒を抜くことや、失われた血液や体力を回復させることはできない。今回のリィルの場合、肩の傷も出血も大したことはなかったのだが。
 息子が辛そうにしているのを見るのは、親としては非常に辛い。できることなら代わってやりたいと思う。それは兄であるフィルも同じなのだろう。フィルは泣きそうな顔でリィルのそばを離れない。でも兄だからこそ涙を流すのはこらえているのだろう。
 エニィルはフィルを安心させるように穏やかに微笑んでみせた。
 「おそらくアビエスの持っている解毒薬は本物だ。ガルディアの女将軍がそんな危険な毒を持ち歩いているんだからね。だとしたらバート君がアビエスを倒せば解毒薬は手に入る」
 「でも、バート君は多分そのこと知らないだろう」
 「だから君が行くんだよ、フィル」
 「そうか……」
 呟いて、フィルは立ち上がった。エニィルは水の精霊で一振りの剣を形作ると、フィルに手渡した。ここまででかなりの回数「精霊」を使ってしまった。今日はもうこれ以上大がかりな精霊は使えないかもしれない。
 「良かった、俺にできることがあって」
 手を伸ばしてフィルは剣を受け取った。フィルはバートほどではなかったが剣は使えた。
 「順番が大切だから良く聞いて」
 エニィルはフィルに言った。
 「多分、バート君はまだユーリアとエルザに連絡を取っていない。僕たちもすぐリンツに向かいたいから、そっちが先だ。バート君ならしばらくは一人で大丈夫だから。まずはユーリアとエルザを探すんだ。リィルの話によると、ユーリアは多分厨房にいるから。そして彼女たちに乗用陸鳥《ヴェクタ》を用意してもらって。それからフィルはバート君のもとへ。解毒薬を手に入れたらすぐに戻ってきて。アビエス相手にあまり深入りはしなくて良い……。六人揃ったら乗用陸鳥《ヴェクタ》でリンツに向かう」
 「そうか。このタイミングで脱出するんだな」
 「もうこうなってしまった以上、チャンスは『今』しかないからね」
 「随分急展開だな……」
 フィルは呟いて、よし、と気合を入れた。
 「行ってくる」

 *

 バートはアビエスから少し離れたところで剣を握りしめ、息を切らせていた。アビエスはバートよりは短い剣を二本、その両手に握っていた。その二本の剣は、父親――クラリスと同じように、何もない虚空から『取り出した』剣だった。アビエスが剣も使えてしかも二刀流なんて聞いてねーぞとバートは思った。
 こいつは、強い。バートは剣を交えながらうすうす感じていた。父親のような圧倒するような強さでは無いが、見た目より奥深く底の見えないような恐ろしい強さを秘めている。
 「あんた……」
 呼吸の合間にバートは言葉を搾り出した。
 「もしかして……、相当、つええだろ……」
 「お褒めの言葉、ありがとうございます」
 アビエスは微笑んだ。
 「ちくしょ……。俺、こんなところで手こずってる場合じゃねーのに……」
 バートはリィルのことを思った。さっきまでそこにいたリィルの口調、リィルの表情を思い出す。あのとき、リィルは半日後には死ぬ覚悟だったのだ。それなのにそんな素振りはちっとも見せなかった。もちろん自分は何も気付かなかった。それが、悔しい。アビエスからそれを聞いて、バートは心臓が凍る思いをした。もし自分がリィルの立場に立たされたのなら――そこまで考えてバートははっとした。
 「でも俺は!」
 短く叫んでバートはアビエスとの間合いを一気に詰めた。渾身の力を込めて剣を振り下ろす。受け止めたアビエスの剣は弾き飛ばされ宙を舞った。アビエスが唇の端をゆがめる。
 「死ぬなんて許さねー! 死んじまったらおしまいじゃねーか! そんなの俺は許さねー!」
 バートは激しい攻撃の連続で防戦一方のアビエスを壁際に追い詰めていった。アビエスの繰り出した剣をなぎ払うとアビエスは剣を取り落した。バートは追い詰められたアビエスの首筋に素早く自らの剣をつきつけた。
 「…………」
 二人はしばらく無言でにらみ合っていた。
 「……フ」
 アビエスは目を閉じて小さく笑った。
 「さすがはクラリス様のご子息……とでも言っておきましょうか」
 「……真面目にやれよ」
 バートは剣をつきつけたまま低く言った。
 「アンタ、全然本気出してねーだろ。戦いの最中に薄笑い浮かべたりして……」
 「何を言っているのですか。貴方が強かったと言っているのです。貴方の勝ちですよ」
 「フザケんな!」
 アビエスの態度にバートは無性に腹が立った。悔しいが、コイツは強いのだ。強いからこそこうやって余裕をかましていられるのだ。敢えて本気を出さずに、必死にあがいている自分たちを高いところから見下ろして楽しんでいるのだ。勝ったというのに、父親のときとは違った悔しさがこみ上げてくる。
 「バート君!」
 そのときバートを呼ぶ声が聞こえた。
 「フィル兄?!」
 こちらに走り寄ってくるのはリィルの兄・フィルだった。右手に一振りの剣を握っている。
 「おやおや」アビエスは呟いた。
 「良いタイミングですね。二対一では本当に分が悪い」
 「バート君、大丈夫か?!」
 「ああ。全然」
 フィルに言われて、バートはうなずいてみせた。
 「アビエスとかいったな」
 フィルはアビエスのそばまで来てにらみつけて言った。
 「アンタがうちのリィルをあんな目に……」
 「それは正確ではありませんが」
 「解毒薬は?」
 フィルが言うと、アビエスは右手で茶色の小瓶――解毒薬をバートの前に差し出した。バートは左手を伸ばしてそれをひったくった。
 「さあ、それを持って早く行きなさい。時間がありませんよ」
 アビエスは穏やかな微笑みを浮かべている。……不思議な光景だった。もし、その微笑みが本物だとしたら、とバートは考える。一体、俺は、何のためにコイツと戦ったんだ?
 「では。私はこれで。健闘を祈ります」
 アビエスは優雅に一礼すると、二人に背を向けて悠然と歩き出した。その背はあまりにも無防備だった。しかし、バートもフィルもアビエスを追って決着をつけようとか止めをさそうとか、そういう気持ちにはなれなかった。アビエスもそれはわかっているのだろう。
 「……オヤジが深追いするなって言ってたからな」
 何かを吹っ切るようにフィルは言った。
 「ヤツのことは忘れて戻ろう」
 そして改めてバートの姿を見て、フィルは声を上げた。
 「バート君、傷開いてるじゃないか!」
 「え……あ」
 今まで夢中で気付かなかったが、胸に巻かれた包帯に赤い血が染み出していた。そりゃあれだけ動いたんだからな、とバートは納得する。大丈夫か、と聞かれてうなずいたが、歩き出そうとした瞬間、胸に鋭い痛みを感じて呻いて膝をついた。フィルが顔色を変える。
 「ヤバイな……早く治さないと」
 「今は良い……」
 フィルを見上げてバートは言った。
 「それより早く戻らないと……」
 「でもバート君、まともに歩けないんじゃないか」
 バートは首を振って痛みをこらえながら立ち上がった。自分よりヤバイのがいるから一刻も早く戻りたかったのだ。
 フィルはため息をついてバートに背を向けて片膝をついた。
 「じゃあ、おぶってってやるから。ほら、捕まって」
 「……やっぱり今治して下さい」

(3)

 ピアン王宮の厨房に駆け込んできたのは今度はフィル――エニィルの長男のほうだった。バートの母ユーリアはフィルのただならぬ様子を見て何となくぴんときた。ユーリアの予想はほとんど当たっていた。まったくあの子は案の定ね、と思いつつ、エルザちゃんのことは任せてと言ってフィルと別れる。そしてエルザのもとへと急いだ。
 乗用陸鳥《ヴェクタ》の用意はエルザに任せ、ユーリアは厨房に戻った。いくつかの瓶を手にしてエニィルたちが軟禁されている小屋へと向かう。
 ユーリアは医務室から拝借したものや、王宮の庭に生えている薬草をこっそりコレクションしていたのだ。その中に毒の回りや症状を抑えるものがある。ユーリアはキッチンを借りるといくつかの薬草を煎じてリィルに飲ませた。
 「大丈夫だからね」
 リィルの枕元にかがみこみ、ユーリアは優しく言う。
 「もうすぐウチのバカが解毒薬持って戻ってくるから。あのバカはバカだけど友達思いなのよ。何てったって私の子だもの」
 ユーリアはリィルの柔らかい髪を優しく撫でてやる。
 「それにフィル君だって……エニィルの息子なんだから」
 ユーリアは立ち上がるとエニィルのそばまで歩いた。小さな声で申し訳なさそうにささやく。
 「ごめんなさい。やっぱり『毒』も特定できないし、完全に取り除くのは無理だわ……」
 「そうか……」
 エニィルは小さく息をついた。
 「薬草コレクターのユーリアならもしかして、って思ってたんけど」
 そのとき、扉のところでがたがたと音がした。
 「ただいま、お父さん」
 「エルザ」
 到着したのはエニィルの長女、エルザだった。
 「エルザちゃん、乗用陸鳥《ヴェクタ》は」
 ユーリアが尋ねると、
 「任せて。ばっちりよ」
 エルザがうなずいたところで、再び扉のほうで音が聞こえた。エルザはそちらのほうへ頭をめぐらせる。
 「あ。あいつらも帰ってきたみたい」
 ちょうどそのとき、フィルとバートも戻ってきた。これで六人が集結した。バートは傷が開いたようだったが、あの様子だとフィルが治してやったんだな、とエニィルは思った。あとは六人でヴェクタに乗ってここを脱出するだけとなった。
 フィルはその手に茶色の小瓶を大切そうに持っていた。しかし、それをリィルに飲ませるときになって、
 「これ……、本当に『解毒薬』……なのか……?」
 そんなことをフィルが言い出した。
 「フィル兄……?」
 「だってアイツ、やけにあっさりとこれを俺たちに……」
 「……そう言えば」
 バートも急に不安になってきた。
 「まさかアイツ……リィルに変なもん飲ませようと企んで……?!」
 「私は本物だと思う」
 と言ったのはエルザだった。
 「アビエス《あの人》のことだからね、多分。っていうか――」
 エルザはベッドに横たわるリィルをちらりと見て厳しい表情で言った。
 「飲ませるしか選択肢ないでしょ? 飲ませなかったら確実に死ぬ。飲ませた方が助かる可能性はある」
 「確かにその通り」
 リィルはゆっくりと上半身を起こすと、瓶を持つフィルに向かって右手を差し出した。
 「飲むから、それ貸して」
 リィルの具合はリィルが小屋にたどり着いたときよりも少し良くなっているようだった。ユーリアが飲ませた薬草が効いているのだろう。
 「…………」
 フィルは茶色の小瓶をじっと眺めていたが、意を決したようにふたを外すと、そのまま自分で一口飲み込んだ。誰も止める間もなく、皆は無言でフィルの様子を見守るしかなかった。数秒後、
 「……大丈夫だ」
 と言ってフィルは弟に瓶を渡した。リィルも受け取って飲んだ。
 「……バカ?」
 エルザがこわい顔でフィルをにらむ。
 「このくらいやらせてくれ」
 フィルは真面目な顔で呟いた。
 「じゃあ、行こうか」
 エニィルが言って、六人は小屋を出て、三人三人に分かれて二匹の乗用陸鳥《ヴェクタ》に乗り込んだ。前のヴェクタにバート、フィル、エルザ。後ろのヴェクタにエニィル、リィル、ユーリアが乗り込む。
 「オヤジ、どこに向かえば良い?」
 振り返ってフィルが尋ねた。ここから一番近いのは裏門だが、長い間使われていなかったその門は、今は扉を固く閉ざしているはずだった。
 「表門」
 エニィルの代わりにエルザが答えた。
 「それが一番安全なルートだから。色々裏工作しといたからね、このときのために」
 エルザの言うとおり、六人はあっさりと表門までたどり着くことができた。エルザが色々と偽の情報を流して逃げ道を確保しておいた、ということらしい。
 王宮の出口――表門には門番の若いガルディア兵が二名いるだけだった。こちらに気付いてぎょっとしたように六人を見ている。
 「通してくれないかな」
 ヴェクタの上からエニィルはにっこりと微笑みかけた。
 「それとも戦う? 六対二だけど」
 二人の門番はお互い顔を見合わせていたが、うなずき合うと覚悟を決めたらしく同時に剣を抜いた。それを見てエニィルはため息をつく。
 「オヤジ、良いから」
 力を使おうとしたエニィルをフィルは止めた。エニィルはバートの大怪我を癒し、『伝書鳥』三羽とフィルの『剣』を生み出している。明らかに力の使いすぎだった。まだ限界ではないだろうが、エニィルの力は切り札だから温存しておきたい。
 フィルは剣を片手にヴェクタを降りた。バートもフィルに倣《なら》う。
 門番たちの剣の腕は思ったとおり大したことなかった。バートもフィルもそれぞれ数回剣を合わせたが、力の差は明らかだった。
 「仕方ないよ。君たちは良く戦った。偶然ここに居合わせてしまった――運が悪かっただけ」
 バートとフィルに打ちのめされ、門を開けさせられる羽目になった若いガルディア兵二人に、エニィルはそう声をかけてやった。
 表門を抜け、二匹のヴェクタは猛スピードでピアン首都を駆け抜けた。夕陽はだいぶ低い位置から、メインストリートを赤く照らしている。ピアン首都と外の世界を隔てる城壁、最後の城門はもう間もなくだった。
 その城門の前に『彼』は立っていた。ガルディアの軍服。長いストレートの黒髪を後ろでひとつにくくっている。腰に挿した剣。こちらを見つめるまなざし。何も読み取れない表情。
 「……クラリス」
 「父親……」
 ユーリアとバートはそれぞれ彼の名を呟いていた。
 ユーリアは夕陽に赤く染まる地面に降り立った。それを見てバートも剣を握りしめ、ヴェクタを降りた。二人でゆっくりと、クラリスに歩み寄る。
 「行くのか」
 バートを見て、クラリスが口を開いた。
 「止めるのか?」
 バートは父親をにらむ。
 「止めるってんなら、力ずくで……」
 「ダメだ、バート君!」
 剣を抜こうとしたバートは鋭い声に止められた。エニィルだった。エニィルもヴェクタを降りて、足早にこちらに歩み寄ってきた。
 「クラリス」
 エニィルはクラリスに微笑みかけた。
 「僕たちは君と戦うつもりはない……戦いたくないんだ」
 クラリスはエニィルを見つめて黙っている。
 エニィルはユーリアを見た。ユーリアもエニィルを見る。それから、クラリスを見上げた。
 「ユーリア」
 クラリスもユーリアを見て、言った。
 「どうしても、行くのか」
 「ええ」ユーリアはうなずく。
 「だから……貴方も来て、クラリス。私たちと一緒にリンツに行きましょう」
 「それは、ガルディアを裏切れということか」
 「そうよ」
 「それは、できない。少なくとも、今は」
 「……わかってるわよ、言ってみただけ」
 ユーリアは寂しそうに笑うと、クラリスに背を向けた。夕陽に赤く染まる地面を踏みしめて、ヴェクタに向けて歩き出す。
 「さようなら」と、小さく呟いた。クラリスに届いたかどうかはわからない。
 「僕もユーリアと同じことを言いたかったんだ」
 と、エニィルは言った。
 「でも僕が言っても答えは同じだろ」
 クラリスはエニィルを見て無言でうなずく。
 「でも……」エニィルはバートを見やった。
 「もし、同じことをバート君が言ったら……?」
 「な……?」
 急に話をふられてバートはうろたえた。その前に、バートは母親の言ったセリフも信じられなかったのだ。ピアンを裏切って、多くのピアン兵を傷つけた父親に、一緒に来て? 俺だったらそんなセリフ死んでも言うもんかと思っていたところだったのだ。
 「エニィルさん、俺は――」
 「わかってる」
 エニィルはバートを見てうなずいた。
 「じゃあクラリス、改めて」
 エニィルはクラリスを見て言った。
 「僕たちはここを抜けてリンツに行きたい。それを見のがして欲しい。君だって君の息子やユーリアや僕を傷つけることは望んでいないはずだ……」
 「…………」
 六人が見守る中、クラリスは黙ったまま背を向けて城門まで歩いていき、門を開けた。
 「……ありがとう」エニィルは微笑んだ。
 「信じていたよ、クラリス」
 エニィルは歩いてヴェクタに戻った。フィルがバートに乗ってと声をかけてくる。
 「父親……」
 バートは父親に何か言わなくてはと思った。しかし、何も言葉が出てこない。
 「元気で、バート」
 いつもの声の調子でクラリスは言った。
 「…………」
 バートは父親に背を向けてヴェクタまで歩いた。自分たちは何をやっているのだろう、と思った。家族なのに。親子なのに。リィルとリィルの父は同じヴェクタに乗って同じリンツを目指すのに。それが普通のことなのに。
 「……そうか」
 バートは小さく呟いた。え?と隣のフィルが聞き返してくる。
 「父親は……アイツは、『クラリス』は、もう『父親』なんかじゃねーんだ……。アイツはガルディアの将の、敵将の『クラリス』なんだ……」
 「バート君……」
 バートの言葉を聞いて、フィルが悲しそうに呟いた。

 *

 陽はだいぶ落ち、あたりは闇に染まり始めた。六人を乗せた二匹の乗用陸鳥《ヴェクタ》は北のリンツを目指して駆けていた。リンツに着くのは明日の昼頃になるだろう。先にピアンを発ったファオミンに追いつくことはできないが、ファオミンが到着するより早く、エニィルの飛ばした伝書鳥がリンツに着くはずだ。その報せが届けば、むざむざピアン王が暗殺されることはないだろう。やるだけのことはやった、とエニィルは大きく息をついていた。
 「父さん」
 一緒に乗っているリィルが声をかけてきた。だいぶ具合は良くなっているようだった。やはりアビエスの持っていた解毒薬は本物だったのだろう。
 「何? リィル」
 「今ここから手紙飛ばしたら、ファオミンが着くまでに追いつけるかな?」
 「今なら多分ね。何か伝え損なったことでもあるのか?」
 「うーん……」リィルは口ごもった。
 「……俺たち六人とも無事でピアンを脱出しましたってことと。それと……面と向かって言い辛いことを、ちょっと、ね」
 そう言って、リィルは意味ありげに微笑んだ。

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